特集
マルハニチロの自然資本との関わり
~TNFD開示から見えてきたこと~

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河田 格氏
マルハニチロ株式会社
常務執行役員
水産資源セグメント長、北米ユニット長 -
井本 悟史氏
マルハニチロ株式会社
執行役員
養殖ユニット長 -
小関 仁孝氏
マルハニチロ株式会社
常務執行役員
コーポレート部門 副部門長
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前川 聡氏
WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)自然保護室 海洋水産グループ長
水産エコラベルの普及および取得支援に携わる。養殖業成長産業化推進協議会委員。 -
橋本 務太氏
WWFジャパン(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)自然保護室 金融グループ長
英国ノッティンガム大学で環境マネジメント専攻の修士課程修了。2021年7月より現職。
マルハニチログループは、2024年度からTNFDフレームワーク❶による開示の検討を開始し2025年度にTNFDが提唱するガイダンスであるLEAPアプローチ❷による依存・影響の分析を実施し開示しました。今回はTNFD情報開示から見えてきたマルハニチロの生物多様性や自然資本への課題と取り組み、そして未来について専門的な知識と広い見識を持つ社外有識者と意見交換を行いました。
❶TNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures):日本語では「自然関連財務情報開示タスクフォース」と訳され、企業や金融機関が自然資本や生物多様性に関するリスクと機会を評価・開示するための国際的な枠組み。
❷LEAPアプローチ:自然との接点、自然との依存関係、インパクト、リスク、機会など、自然関連課題の評価のための統合的な分析手法として、TNFDにより開発された。LEAPアプローチでは、スコーピングを経て、Locate(発見する)、Evaluate(診断する)、Assess(評価する)、Prepare(準備する)のステップを踏み、TNFD情報開示に向けた準備を行う。
TNFDフレームワークに基づき天然魚のスケソウダラと日本で養殖しているマグロ、ブリ、カンパチに関しての調査・分析を実施
小関 企業は経済価値、環境価値、社会価値という3つの価値の向上を三位一体で進め、企業そのものが持続可能であることが企業の存在意義だと捉えています。私たちマルハニチログループは自然資本に大きく依存して企業活動を行っており、年間約170万トンの魚を取り扱い、養殖も行っておりますが、約136万トンが天然の水産資源です。自然資本をしっかりと管理し、将来に渡っても、消費者にも地球環境にも持続可能とすることを最重要としています。持続可能性に関する様々な取り組みを企画し進捗管理する組織を「サステナビリティ戦略部」として部門に昇格させ、「サステナビリティ委員会」も開催頻度は2年前から年4回、全役付執行役員が参画し議論を深めています。

TNFDフレームワークに基づく取り組みは2023年に始めました。2024年はLEAPアプローチの入り口としてL o c a t eとEva l u a t eに取り組み、2 0 2 5 年にはAccessとPrepareに進み、今般の情報開示に至りました。まず、ENCORE❸で1次評価、2次評価と進めましたが、当社は非常に多岐にわたる魚種を扱っているので、いきなり全種類の評価を行うのは非現実的と考え、天然魚では取扱量が大きく約50年近く取り組んで来ているアラスカでのスケソウダラに関して評価を行いました。養殖に関しては、特にマグロ、ブリ、カンパチという日本で行っている海面養殖の環境や社会に対する影響を見る必要があると考えて評価を実施しました。
❸ENCORE:「Exploring Natural Capital Opportunities, Risks and Exposure」の頭文字を取ったもので、組織が自然関連リスクへのエクスポージャー(感応度)を調査し、自然への依存と影響を理解するために役立つオ ンラインツール。
橋本 自社のみならず地球環境にとって何が大切かという視点で取り組まれていることは、我々として非常に心強く感じます。TNFDが提言を発表する前から漁業資源や人権課題等について取り組んでおられましたから、TNFDは開示しやすい枠組みだったのではないでしょうか。

一方、今回の開示の対象にならなかった環境や社会に関する課題についての考えがより伝わる開示だと、読み手としても読み応えがあるものになるのではないかという印象を持ちました。
LEAPによるアプローチから見えてきたこと。
バリューチェーン全体に対してより大きな影響力の発揮を
河田 まず北米ユニットについてお話します。一部、前中計の中では海外ユニットという表現をしておりましたが、今回新しいユニットの名前で、「北米ユニット」という形になっています。当社のスケソウダラ事業は、米国のアラスカに自社工場を持ち漁獲・製造・加工・販売までを行っている事業と、ロシア海域のカムチャツカ半島西岸のオホーツク海沿岸においてロシア企業が扱っているスケソウダラ製品を、当社が買いつけ日本に輸入販売するという2つのビジネスがあります。両地区の漁獲海域を分析した結果、生態的及び生物学的に重要で、トドやアザラシの保護区域でもあり、各国の国立公園も含む自然保護海域である、あるいは隣接地域での操業である点から、優先地域としました。
次に、スケソウダラ事業の生物多様性への依存度合い、影響度合いという視点で診断しました。ENCORE分析の依存と影響の情報に加え論文等の調査を実施した結果、スケソウダラの資源量は産卵や生育、生育場所、それらを取り巻く海洋環境と水質に非常に大きく依存していることが分かりました。また、スケソウダラの漁獲方法や漁具も適切に運用・管理されないと、スケソウダラのみならず他の生物の生態系にも非常に大きく影響すると判明しました。現地の漁業従事者、事業の従事者などを加えた地域の住民の人権にも与える影響が大きいと認識しています。

これらのシナリオ分析結果から、リスク低減対策として、アラスカの厳格な漁獲規制に沿って操業を行い持続可能なMSC❹認証を維持していくことが非常に重要だと認識しています。現地の事業パートナー、および事業関係者との良好なコミュニケーションの構築が安定操業に不可欠であり、地域への納税を、極寒の地に住む地域住民の方々の居住環境の改善や教育、生活の支援に向けた資金面でのサポートとして活用すること(CDQプログラム/アラスカ沿岸コミュニティ開発割当枠)は非常に重要です。
機会を最大化するために、2030年に水産製品それから水産物を含む製品の売上げのうち15%以上をMSCなどGSSI ❺認証製品にするということをKPIとしています。日本ではGSSI認証製品を差別化した販売は浸透していない現状ですが、欧米のように日本マーケットでも差別化され、生物多様性を維持しながら水産資源を持続的に活用する社会を構築していくことも当社の使命と考えています。
井本 養殖ユニットについては、2024年に操業していた全13拠点のうち、大分県佐伯市と鹿児島県鹿児島市以外の11拠点を、環境省が指定する生物多様性の観点から重要性の高い海域に該当することを確認し、優先地域と特定しました。なお近年、山口県の長門市、静岡県の沼津市にも新しく養殖場を構え、現在は15拠点で操業しています。次に、養殖魚の育成は、漁場の水質や環境へ大きく依存することを認識しています。同様に、養殖事業は周域、周辺の海洋環境、生態系への影響だけでなく、我々が事業を行う地域の方々の生活にも影響を与えることを認識して、それらに配慮した事業を展開していきます。
続いて自然資本への依存度、環境への影響度について、どのようなリスクと機会になりうるかを検討しました。リスク側面では自然と生態系の劣化は既に始まっており、今後さらなる進行が予想されます。養殖の餌は天然水産物の枯渇によって安定的な確保が難しく、加えて急激な環境変化、温暖化による水温上昇による飼育環境の悪化もリスクです。現状ではサステナブルな商品が市場に浸透しているとは言えませんが、急速にサステナブルな商品が受け入れられるという可能性もあり、機会として捉えています。これらのことから、「シナリオ2」「シナリオ3」の可能性が高く、養殖事業に大きな財務影響を与えると考えます。「シナリオ2」ではサステナブルな商品が受け入れられ市場が広がり、サステナブルな製品や代替たんぱく原料を確保できる当社は他社との差別化につながり、当社養殖事業の優位性を強調できると考えています。

そういうコミュニケーションを取りながら地元の人々とうまく付き合うことが、養殖事業の中で一番大事であり、これをしっかりやっていきたいと思っています。この機会を最大化するためには、サステナブルな認証商品を外食とか中食とかB to Bマーケットで積極的に販売していきたいと考えています。さらに将来的なイメージですが、バイオ肉のようなものの研究開発も進めていきたいと思っています。100年後はもう養殖は無く、ボタン押したらマグロを取ろうとか、カンパチとか、そういうのもできる時代が来るのではないかとイメージしています。時間はかかりますが、将来のビジネスチャンス最大化するためにいろいろなことを準備していきたいと思っています。
❹MSC(Marine Stewardship Council :海洋管理協議会)認証:持続可能な漁業を推進するための国際的な認証制度。MSCの厳格な規格に適合した漁業で獲られた持続可能な水産物には、MSC「海のエコラベル」が付けられる。
❺GSSI:Global Sustainable Seafood Initiative,世界水産物持続可能性イニシアチブの略、FAOのガイドライン「責任ある漁業のための行動規範」に照らし合わせ、数多くの認証スキームをチェックしている。
❻ASC(Aquaculture Stewardship Council:水産養殖管理協議会)認証:環境や社会に配慮した責任ある水産養殖業に対して与えられる国際的な認証制度。
①法令順守と適切な管理、②環境保全への責任、③人権尊重、④アニマルウェルフェアの4つを柱として策定。認証を取得した水産物には、ASCエコラベルを付けることができる。
前川 スケソウダラに関しては、アラスカは漁業管理が強化されているのでリスクは少ないと思いますが、現状の地政学的な不安定さや気候変動の影響の大きさを勘案すると課題はあると感じています。
リスクを減らしサステナビリティに対する機運をより高めるためには、生産・調達の部分だけではなく、バリューチェーン全体に御社の影響力をより大きく発揮していただきたいと思います。認証を取得しても、日本市場では付加価値がつきにくいのが現状です。今後、御社単独1社だけではなく、同業他社や生産現場、小売業も巻き込んで連携する仕組みが求められているのではないでしょうか。一番川下のリテーラーのから、こういった商品が欲しいということに応じて御社もそれに対応しているのでしょうが、御社のほうから、川下、川上のほうに影響力をどんどん発揮していくといったことが、今後求められると考えます。
国内養殖事業では、ASC認証を取得維持の鍵となるのが飼料のサステナビリティです。加工残渣や昆虫ミールの取組はボリュームを増やして単価を下げなくてはなりません。これもやはり、御社1社が取り組むだけではなく、関係業界やサプライチェーンを巻き込む影響力を期待します。
サステナブルな水産物の購入意欲向上のために
消費者フレンドリーな売り場提案にまで踏み込む
井本 現状、日本では量販店のバイイングパワーが強いのですが、欧米のようにサステナビリティ商品でなければ買わないという波が、いつか日本に来ると思います。そういう機会を捉えてチャンスにしていきたいと思っています。
小関 流通サイドの件ですが、小売は売り場の現場が強いという意識がすごく強く、私たちは求められたものは供給するものの、売り方等は量販店の人たちの売り方に任せきりになっていると言わざるを得ません。売り場作りはマニュアル化され、季節毎に決められた商品を並べるだけとなっており、この売り方のシステム自体がもう今の世の中にマッチしなくなってきている印象があります。当社はそこに対してもっと発信をし、「一緒になってこの売り場を変えましょう」等の提案が出来ていなかった反省があります。
今は魚種によっては養殖のほうがおいしい魚もありますし、産卵期もずらして1年中出荷することもできます。何を食べさせたかで、風味や脂ののりも食感も変わります。しかし、それが消費者の手に届く場面において十分に表現されていないのが現実です。消費者がより魚を食べやすく、手に取っていただきやすい消費者フレンドリーな売り場づくり提案は私たちがしていなかくてならないと思います。
橋本 ネイチャーポジティブ❼な社会の実現に向けた、御社の取り組みはとても重要です。どういう自然関連のリスクがあって、それはビジネスにとって良い影響か悪い影響なのかはTNFD開示でも求められていますが、リスクへの対応だけではなく事業を通じて自然を回復してよりよくする、その判断材料を提供することが、TNFDの根本思想です。

前川 少ない魚種しか扱わない海外企業に比べて、御社は様々な魚種を扱っていますので、より多くの課題に直面しています。MSCもASCも基準がだんだんと厳しくなっていく中で、ASCやMSCに向けて、実情を積極的に発信していくことがとても重要です。MSCであればより管理が厳格になると共に業務の管理についても方針が入り、ASCについてはフィードの部分の対応が厳しくなってくるかと思います。そういったものについてもちろん対応していくということは十分必要ですが、ギャップがどこにあるのかもしっかりとASC側、MSC側、基準をつくる側にも発信をしていくことが求められます。新基準ができる際には、しっかり日本側の事情や現在の課題感を伝えなくてならないでしょう。御社が日本の養殖業界、水産業界の手本になることが、リーディングカンパニーとしての役割であろうと思います。
小関 ルールを作る側と協働して現実的で意味のあるルールとなるよう、今後も働きかけを続けます。当社は、145年もの間、自然資本と向かい合いながら人間社会との調和をとって生きてきた会社です。ほかの企業が取り組めないことにも、我々はもう一段上のことをやれるだけのリソースもありますから、今後は、一歩先んじた取り組みにも挑戦したいと思います。
また話は少し変わりますが、冒頭申し上げたように、マテリアリティを9つ特定したこと自体は、そのプロセスも含めてかなり妥当なやり方と考えますが、それぞれのKPI、KGI考えて具体論として検討する中で、果たして当社をサステナブルにすることに本当に全てがリンクしているのか不明に感じるところもあります。とは言え、本来はこの9つのマテリアリティは、どれも上位概念で非常に重要なことなので、取り組みそのものが企業価値を引き上げ、環境や社会、人権も含めた全てをやはりそこに関わるステークホルダーの人たちが、みんながハッピーになれるということが大前提にあり、私たちはこれを競争優位性の源泉にしなければなりません。当社は145年に渡り、自然資本に依存しながらもそれを支えてきた歴史があり、サステナビリティを経営の一丁目一番地として意識していきます。
❼ネイチャーポジティブ:日本語訳で「自然再興」といい、「自然を回復軌道に乗せるため、生物多様性の損失を止め、反転させる」ことを意味する。国内では、2023年3月に閣議決定した生物多様性国家戦略2023-2030において2030年までにネイチャーポジティブを達成するという目標が掲げられている。
未来も持続的にたんぱく質を提供し続けるために現実から未来に向けて着実にステップを踏んで進めていくことを期待
河田 先ほど指摘があったように、欧米では買い手からMSCがついた商品しか買わないと指摘されることもあります。生態系の保全を意識した購買となっていますが川下から川上という観点では、日本は量販店のパワーが非常に強く、そこが変わると短期間で大きく変化する可能性があると考えます。
日本は為替が弱いのにもかかわらず、食品が満ち溢れているという状況の中で食料に対しての危機感も乏しく、そういう状況の中で日本、ひいてはアジアでのサステナブ供給に対してのバリューが認められるように活路を拡げていく必要があると考えます。
世界人口は今でも増え続け、近い将来にはたんぱく質の需要と供給のバランスが崩れる「タンパク質クライシス」が訪れ、たんぱく質に飢えるようになると思います。そういった社会において、しっかりと持続可能なタンパク質の供給源としての水産物を守る活動を当社が進めるべきと考えます。
小関 カナダでは海面養殖を禁止する動きも出てきており、ノルウェーやチリでは養殖に適したフィヨルドが限られ、生産余力もほとんどありません。こうした環境を鑑みると、陸上養殖にも挑戦しなければサステナブルにタンパク質を供給する使命を果たすことは、容易ではありません。
また、「タンパク質クライシス❽」を考えると、畜肉関係では生産量はこれ以上上がらないだろうという中で、水産といっても結局今世界中取れているのが大体2億トン前後の漁獲があり、約1億6,000万トンが食用だと言われていますが、半分が養殖で、半分が天然です。現在ではそれぐらい養殖の魚が増えており、少なくとも天然の魚は1985年あたりからほとんど増えていないのが現状です。むしろ減ってきているということを考えると、養殖の世界をしっかり鍛え上げていかないと、多分このタンパク質供給の面では、世界中の飢餓に直結する可能性も否定できず、当社はそこをしっかり提供できる会社であり続けたいと考えています。
それは健康に寄与するものであると同時に、地球が健康でないと持続的ではないので、地球の健康を考えて提供できるたんぱく供給の会社になりたいと考えています。出来れば今後10年以内には、タンパク質供給に関して世界で目立つくらいの会社になることを目指しています。
橋本 現状から未来に向けて、どういうステップで進むのかが重要です。現状の開示は財務面に力を入れた開示になっていますので、次のステップとして、自社事業が財務だけではなくて自然にとってどういうリスクと機会があるかを分析するという方向性です。また、開示されている魚種の環境影響の深掘りや、今回開示されていない魚種についての開示 、バリューチェーン、特に御社以外の漁業者に対して自社の考えを伝えているか、漁業者たちの改善に影響を与えているかといった方向にTNFD等を利用して進むことが、最終的には御社の大きなビジョン実現につながります。
前川 天然魚においてはサステナビリティ観点から評価し管理できている魚種がある一方で、情報がなく状況の改善が必要な魚種もあると思います。改善が必要な場合、その改善に寄与できるのか、管理できるのかを分析し、取組を開示してください。特に東南アジアのエビ養殖は人権リスクが高く、マングローブへの負荷が高いとされています。御社が調達しているエビについて、マングローブの生態系への影響や、新規開拓された養殖場の影響、人権問題への影響等のリスクを確認し、取組むのが良いと思います。今後も引き続き、アグレッシブに世界をリードしていただきたいです。
小関 私たちは2026年3月に社名をUmiosに変更し、アイデンティティも変更します。サステナブルに良質なタンパク質を消費者の皆様に提供し、食糧危機を乗り越えていくという企業の使命の達成のためには認証製品を供給するに留まらず、水産物の社会価値や環境価値を高めるための多角的で包括的なソリューションを提供しなくてはなりません。私たちはこれから、挑戦と共創をテーマに掲げ、サステナビリティをリードするゲームチェンジャーとなることをめざします。サステナブルであるということを競争優位性につなげ、企業を強くし、企業価値を高めることに結びつけていきますので、引き続きご指導いただけますようにお願いいたします。
❽タンパク質クライシス:タンパク質の需要と供給のバランスが崩れることを指す言葉。拡大するタンパク質需要に対して現在の食料生産体制では対応できず、地球環境や経済、社会に深刻な影響を及ぼすとされる問題。
