SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

サケの養殖事業
日本のサケマス養殖の歴史

養殖場でのニジマスの採卵
サケマス養殖には内水面養殖(淡水養殖)と海面養殖(海水養殖)があります。
日本のサケマス養殖は130年前の1877年(明治10年)にニジマスの内水面養殖により開始されました。一方、サケマス海面養殖も1963年(昭和38年)に内水面養殖と同じくニジマス養殖により開始されました。
(1) サケマスの内水面養殖

ニジマスは北米西部の太平洋側にそそぐ河川が原産地です。
日本には1877年(明治10年)ニジマス卵10,000粒が北米より寄贈され、関沢明清〔1876年米国東海岸でサケのふ化方法を学び、日本にふ化放流技術を導入。水産伝習所(現東京海洋大学)の初代所長〕が東京の養魚池でふ化・飼育したのが日本におけるニジマスの養殖の始まりと記されています。

その後明治20年、22年、40年代にも何度かニジマス発眼卵は北米より輸入され、日光の中禅寺湖、滋賀県醒ヶ井村(さめがいむら)のふ化場等に収容され養殖されました。この頃のニジマス養殖は主に湖沼への放流が目的でした。明治後半には日本でもニジマス親魚より採卵が行なわれ、以後は輸入卵に替わり国産卵によるニジマス養殖が行われました。

1926年(大正15年)「水産増殖奨励規則」の公布を契機に、全国の都道府県にふ化場や養殖場ができ、ニジマスの内水面養殖は盛んになりました。ニジマス内水面養殖生産量は昭和初期に年間100トンであったものが1943年(昭和18年)には500トンと増加しました。


ニジマスのふ化


ニジマスの仔魚
1950年(昭和25年)冷凍ニジマスが始めてハワイに輸出されました。

さいのう(栄養袋)が小さくなったニジマスの仔魚


元気なニジマスの稚魚たち

養殖ニジマスの輸出は1953年(昭和28年)より本格化し、最も多く輸出された1971年(昭和46年)には3,084トンが米国・カナダ・ヨーロッパへ出荷されました。

当時の輸出ニジマスの主生産地は長野県、静岡県、山形県でした。輸出は1973年頃まで行なわれましたが、為替の問題(1973年のドルショック)もあり輸出は減少し、ニジマスは国内消費や遊魚に向けられました。

ニジマス生産量は1982年(昭和57年)に過去最高の18,230トン生産されましたが、以後は減少し、2004年(平成16年)の生産量は8,848トンとなっております。

ニジマス以外のサケマス養殖種にはヤマメ、アマゴ、イワナ、ヒメマス、ギンザケ、コレゴノス(シナノユキマス)等があります。これらは食用、遊魚、河川湖沼への放流、海面養殖用の種苗生産を目的とし養殖されてきました。
2004年、ニジマス以外のサケマス養殖生産量は3,869トンです。従って2004年の内水面におけるサケマス養殖生産量は12,717トン(内ニジマス8,848トン)です。

(2) サケマスの海面養殖

わが国におけるサケマスの海面養殖の試みは昭和30年代後半に始まりました。昭和38年には広島県で、昭和39年には静岡県でニジマスの海面養殖試験が行なわれましたが、両県とも企業化には至らず終了しました。

わが国におけるサケマス海面養殖事業は、北日本養魚(株)が1971年(昭和46年)宮城県雄勝湾(おがつわん)において宮城県水産試験場の指導のもと、ニジマスを網イケスで養殖し、300トンの大型ニジマスを生産した事に始まります。


全長約4cmのギンザケの稚魚

同社は技術的には成功しましたが、マーケットに問題があり1975年(昭和50年)に事業は中止されました。北海道忍路湾(おしょろわん)では1970年(昭和45年)11月~1972年(昭和47年)7月の期間、北海道開発局が北海道立水産ふ化場の指導の下、マスノスケ、カラフトマス、スチールヘッドトラウト(降海型ニジマス)の養殖企業化試験を行い、マスノスケの養殖の可能性が示唆される結果を得ました。

昭和40年代後半には岩手県山田湾で岩手県栽培漁業センターがマスノスケ・ギンザケの網イケスによる養殖試験を行いました。昭和30年代、40年代に行なわれた数々のサケマスの養殖事業、企業化試験は中止あるいは試験段階のみで終了しましたが、これらの試験を通じて得られた施設面、魚種特性(主に生理・生態・海水適応)、餌料、魚病等の数々の知見・技術は、50年代以降に実践されたシロサケ稚魚の海中飼育放流事業やギンザケ養殖事業に受け継がれました。

昭和50年代に入りわが国のサケマスの企業養殖は本格化しました。

パーマーク(幼魚斑点)が残っているギンザケ幼魚

先鞭をつけたのは宮城県志津川町(しづがわちょう)漁業協同組合(以下志津川漁協という)と日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)が行なったギンザケ養殖事業です。

1975年(昭和50年)~1977年(昭和52年)志津川湾で同組合員遠藤昭吾氏が、日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)の指導を受けギンザケの海面養殖試験を行い成功させました。
1978年(昭和53年)には志津川漁協を中心に80トンのギンザケが生産され、日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)は全国の市場にギンザケを鮮魚で出荷しました。

以後宮城県・岩手県を中心に、新潟県佐渡、石川県、福井県、島根県、三重県、香川県、北海道に養殖地は拡がり、生産量は急速に伸び、5年後の1983年(昭和58年)には2,800トン、10年後の1988年(昭和63年)には16,000トンの生産量に達しました。1981年(昭和56年)からは日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)以外の企業もギンザケ養殖事業に参入しました。

ギンザケ養殖が急速に伸びた背景にはギンザケの(1)養殖適性(成長が早い、耐病性がある、種苗の入手が容易)、(2)商品性(生鮮出荷が主体、生食が可能、紅色が鮮やか)、(3)市場性(北洋鮭鱒・輸入鮭鱒・秋サケの入荷の無い端境期に出荷できる)(4)生産販売体制(漁業協同組合と企業が提携・協力し事業の推進拡大を行なった)があったと推察されます。

ギンザケ養殖は、1991年をピークに過剰生産や輸入ギンザケとの競合があり、生産量は減少します。

ギンザケ養殖は1991年(平成3年)の生産量26,000トンをピークに、過剰生産、ノルウェー、チリ等の海外からの養殖サケマスの搬入により魚価が低迷し、事業メリットが失われ生産量は減少に転じ、1996年(平成8年)には10,000トンを割り生産量は8,500トンと減少しました。
その後も魚価の低迷は続きましたが、生産者による養殖コストの削減等の改善が図られ、近年でも宮城県を中心に10,000トン強の生産が続けられています。
2005年のギンザケ生産量は12,835トンと報告されています。


パーマークが取れ、銀毛となり海水適応可能となったギンザケ幼魚

昭和50年以降に開始されたギンザケ以外のサケマス海面養殖種にはマスノスケ(昭和55年宮城県志津川町にて志津川漁協・日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)が実施)、ベニザケ(昭和55年宮城県志津川町にて志津川漁協・日魯漁業(株)(現マルハニチロホールディングス)が実施)、サクラマス(昭和57年北海道乙部町にて乙部町が実施)、ドナルドソン系ニジマス(昭和59年北海道別海町にて、大橋勝彦氏が実施)、大西洋サケ(昭和63年青森県八戸沖にて、マリノフォーラム21・八戸漁連が沖合養殖試験として実施)があります。

これらの魚種の海面養殖は昭和50年代、60年代に民間、国、県の事業ベースまたは企業化試験として北日本各地で実施されました。
しかしながら現時点で事業として継続されているのは宮城県を中心に行われているギンザケ養殖事業だけです。

ニジマス養殖業収穫量(日本)
ギンサケ養殖業収穫量(日本)
グラフ資料:農林水産省「漁業・養殖業生産統計」、北海道定置漁業協会「養殖銀ざけの生産量の推移」
ページTOPへ