SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

環境持続型のアラスカ漁業1
1959年、アラスカがアメリカ合衆国の州に昇格したとき、「アラスカ州憲法」に魚や野生動物の乱獲を防止し、自然の環境持続を謳う条文が盛り込まれました。
それは野放しにすれば人間は、生態を無視して獲り尽くしてしまう危険性があることへの反省から、この条文を州の基本理念に定めました。この考え方は今から見れば、現在21世紀の環境問題を見越した卓見でもありました。アラスカ州が、半世紀以上、営々と環境持続型漁業を実践してきたこの叡智とその軌跡に世界中が学び、次世代への教訓としなければなりません。
このページのアラスカの水産業の特徴と水産業発展の歴史は、北海学園大学・人文学部教授 手塚 薫氏らのフィールドワークでの報告書から抜粋引用させていただき、若干の加筆などご協力をいただきました。ありがとうございます。
アラスカの水産業の特徴

アラスカの水産業は、そこに従事する労働者がアラスカ全体の民間労働人口の5分の1に相当することでもわかるように、基幹産業の1つとなっています。アラスカの漁獲量は、世界で10位以内に入り、アメリカ国内生産量の60%を占めています。
アラスカの海で育ちアラスカの河川にもどるサケは、アラスカの最も重要な漁業資源であり、先住民の食料基盤ともなっています。
サケはアラスカではChinook(キングサーモン)、Sockeye(ベニザケ)、Coho(ギンザケ)、ChumまたはKeta(シロサケ)、Pink(カラフトマス)の5種があり、カニ類としてズワイ、タラバ、ダンジネスなどがあり、エビも漁獲されています。ニシンは食用とエサ用に漁獲されており、オヒョウは世界におけるオヒョウの供給のほとんどすべてをまかなっています。
アラスカ産サケの特徴は、キングサーモン、ベニザケ、ギンザケ、シロザケ、カラフトマスの順でグラムあたりの脂肪含有量が下がる傾向にあります。現在、日本人は生や冷凍サケを好む傾向にあります。一方でイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアでは缶詰の根強い需要があります。
底魚(ソコウオdemersal fish)としては、アラスカスケソウダラ、ヒラメ、カレイ、アカウオ、ギンダラ、マダラなどが主な魚種であり、日本の店頭でもよく見られます。これらは魚価が下がったサケに代わりアラスカの水産業を支えています。
このようにアラスカの水産資源は、豊富で多種に渡っていることが特徴であり、最大の特徴は、すべての水揚げが「天然」であるということです。
アラスカ州の州法によって、アラスカの水産業は養殖が一切禁止されています。
また、アラスカ州漁業狩猟省(ADFG)が世界的に厳しい基準で、しかも科学的な根拠に基づいて計画的な水産資源管理を行っており、アラスカのサケ漁は持続可能な水産業として、世界的に審査が厳しいことでも知られる海洋管理協議会(MSC)の認証を受けています。
(北海学園大学・人文学部教授 手塚 薫)

アラスカ天然のキングサーモン(マスノンスケ)
アラスカ天然のベニザケ
アラスカ天然のコーホーサーモン(ギンザケ)
アラスカ天然のチャムサーモン(シロサケ)
アラスカ天然のピンクサーモン(カラフトマス)
アラスカの水産業、発展の歴史

(アラスカのコディアック島水産業発展の歴史と先住民の活動)
アラスカの商業サケ漁は、1800年代にラッコなどの毛皮を求めるロシア人の到来とともに始まりました。河川をせき止めて漁獲されたサケは、塩漬け処理されましたが、その規模は小さなものでした。
1867年、アメリカはロシアからアラスカを購入。
その後、アラスカでは、河川の流れをすべてせき止める型の漁獲施設は1889年に禁じられ、河川や狭い入り江に設置する固定の漁獲施設も1906年までに禁じられました。
コディアック島ではアメリカ人による商業サケ漁は、カールラックに缶詰工場が建設されてスタートし、58,800尾のベニザケが地引き網で捕られ加工されました。同様にタラやニシンの塩蔵加工場も作られ、コディアック島では1880~90年代に多数の工場が建設され、20世紀初頭にサケの缶詰製造は急速に発展しました。
カールラックでも1901年に約4,000,000万尾の漁獲がありましたが、商業漁業の盛行にともなって漁獲が減少したともいわれています。主要な捕獲方法は、初期に活躍したフィッシュトラップ(注1)から地引き網、巾着網、刺し網を含むものになりました。
コディアック地区の1900年から1909年までの年平均漁獲数は3,000尾のキングサーモン、3,200,000尾のベニザケ、6,000尾のギンザケ、90,000尾のカラフトマスであり、その後も漁獲数は1930年代まで増加します。
アラスカが米国に売却される1867年頃までに、オールドハーバー村はすでに現在の地に存在していました。米国はラッコが先住民の経済に欠かせないことを理解しており、先住民を雇用せずに白人が単独でラッコ猟を行うことを禁じました。
アラスカ コマーシャル カンパニー(ACC)は島内各地に店を開き、ロシアの露米会社(RAC)がかつてやったように狩猟グループを組織させ必要な物資を供給しました。狩猟グループはラッコが多数生息する遠隔地に遠征し、数週間そこに滞在して、ラッコとともに集落にもどることが繰り返されました。毛皮は一枚あたり80~100米ドルの値がつき、通常は交易品(食料品や鉄製品、銃弾)と取引されました。
1890年代にゴールドラッシュが起こる頃には、ラッコは取り尽くされ、集落を訪れる帆船の数は激減。一部のアルーティック(注2)は島を離れ、アラスカの炭坑や金鉱山探索のガイドを勤めることもありましたが、オールドハーバー出身のアルーティックはコディアック島ポートへブロンの商業捕鯨基地で働き、これは1940年代まで続きました。島内では1880年代に多くのサケの缶詰工場が作られましたが、当初先住民は労働者としては雇用されず、スカンジナビア人やイタリア人、中国人や他のアジア人が雇用されました。
1940年代にはスカンジナビア移民が導入した漁業技術により、アルーティック漁民は魚船と巾着網を巻きあげる動力機械を購入できるまでに資本を蓄積しました。
Yuji Ishii
それまでにも動力漁船は存在していましたが、自己所有のものではなく、水産加工会社が所有するものでした。漁船の所有によって始めて雇用労働者から独立した漁業経営の主体になることができたのです。1950年代には夏のサケ漁の他に、冬にタラバガニ漁を行い、重いカニ籠を海中に投入し引き上げるために、巾着網用の動力機械が利用されました。
1973年にアラスカ海域で操業できる漁船の総数を制限する入漁規制が実施され、オールドハーバーの漁民は、過去4年間水産業に関わっていた場合に限り、無料で巾着網・刺し網・地引き網のライセンスが発行されました。
コディアック地区では368件の巾着網、183件の刺し網、27件の地引き網のライセンスが認められました。
ライセンスを入手できなかった人はそれを買い求めるか、ライセンス所有者のもとで働くしかありませんでした。
1980年代まで商業サケ漁は順調に推移し、各ライセンスの売り買いは約150,000ドルで行われていましたが、養殖サケの躍進がみられた1990年半ばには、その価格は約40,000ドルにまで落ち込みました。
(北海学園大学・人文学部教授 手塚 薫)
(注1)フィッシュトラップ・・・魚を中央部の網に追い込む形に杭を打ち込むタイプと1907年に新たに開発された海底に係留した浮き木からつり下げた網で魚を捕らえるタイプに大別される
(注2)アルーティック・・・アラスカ・コディアック地域の先住民
引用・参考文献
基盤研究(A)「先住民による海洋資源の流通と管理」(研究代表者 岸上伸啓編集 課題番号15251012)研究成果報告書 2007年発行
写真提供:Alaska Seafood Marketing Institute (ASMI) ,アラスカシーフードマーケティング協会
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