SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

札幌市、豊平川の「カムバックサーモン運動」――――自然環境問題に対するはじめての市民運動――――
札幌市を流れる豊平川。大都市の河川でありながら、30年前からの市民運動により、昔ながらのサケの遡上を実現させました。今では人工ふ化放流したサケだけでなく、自然産卵したサケも回帰するような環境に回復しました。
1978年、札幌市内を流れる豊平川にサケを呼び戻そう、と始まった「カムバックサーモン運動」は、自然環境問題に対するはじめての市民運動でした。
札幌市民たちが豊平川の汚染を嘆き、川の水質浄化に取組み、サケを呼び戻す夢を語り、行政、経済界などあらゆる分野の協力を仰ぎ、計画をたて、市民総ぐるみの運動に盛り上げていきました。
その後、市民運動の熱い思いと努力が実り、サケの遡上が始まりました。そして10年、20年、30年と経ち、現在、豊平川は大都市の河川でありながら、人工ふ化放流したサケだけでなく、自然産卵したサケも回帰するような環境に回復しました。
まったく世界に類を見ない自然環境の復活を市民自らの手で成し遂げたのです。
2010年現在。スタートから約30年が経ち、豊平川には、毎年ほぼ2000匹のサケが帰ってくるようになりました。「カムバックサーモン運動」の拠点となっている札幌市豊平川さけ科学館の調査報告によると、サケの回帰数は81年は223匹だったのが、95年には6600匹に達し、88年以降は放流数を約20万匹に保ち、ここ10年は毎年、2000匹前後が帰ってきているそうです。
遡上するのは人が放流したサケだけではなく、川で生まれた「豊平川産」も川を下り、川に戻ってくる、という「野生化」が始まっています。同科学館の調査では、東橋や一条大橋付近が自然の産卵床になっており、その数は約千カ所にも及ぶそうです。豊平川はまさに、大都会なのにサケが自然産卵している世界でも貴重な川であり、世界に誇れる鮭川になっています。
また、札幌市の東白石小学校は、カムバック運動2年目の1979年、児童の発案で募金による協力を開始し、稚魚放流に加わり、校内にふ化施設「さけ学習館」を造り、飼育から放流までを「サケ学習」として、本格的に教育に取り組んできた小学校です。
現在も親サケから採卵、授精を体験し、ふ化したサケの飼育観察をつづけ、毎年放流式を行っています。同小のほかにも、札幌クラークライオンズクラブの提供で稚魚を育てている小学校は市内に18校もあります。
カムバック運動の成果は、子ども達の教育にも、おおいに生かされています。
このように市民の力で環境を復活させた意義のあるカムバックサーモン運動のあゆみを以下にご紹介いたします。
<カムバックサーモン運動の主な流れ>
1978年 さっぽろサケの会が発足
1979年 サケ稚魚を計100万匹放流
1981年 豊平川にサケが初めて回帰、日本全国で話題になり、運動が波及する
1982年 札幌市立東白石小の児童が鈴木善幸首相に豊平川への魚道設置を要請
1983年 豊平川に帰ってきたサケの稚魚で初めて放流
1984年 豊平川さけ科学館オープン
1985年 カナダに初のサケ学習団派遣、「さっぽろサケの会」が解散し「サケ友の会」を設立
1991年 第1回北海道サケ会議開催
1998年 サケ友の会が創立20周年記念誌を発行
2003年 財政難からカナダとの交換学習を終える
2005年 サケ友の会が解散し「北海道サーモン協会」を設立
2007年 カナダとの交換学習が再開
【豊平川にサケを呼び戻そう、と市民運動スタート】1978年(昭和53年)10月28日
「さっぽろサケの会」がスタート、豊平川サケ連絡協議会も発足
昔のようにサケが銀鱗を躍らせて戻ってきたらどうだろう。こんな夢を描いた人たちが集まり、活動がはじまりました。そしてこれを自然回帰の市民運動に広げようじゃないかと生まれたのが「さっぽろサケの会」でした。
「生きた河川を復活させたい、どぶ川や放水路はもう沢山だ」と考え始めた多数の市民におされてこの運動が始まった。と、当時を振り返る会長の吉崎昌一氏(当時北海道大学助教授、故人)は、札幌市民につぎのようなメッセージで運動への参加を呼びかけました。
『札幌市の中心を流れている豊平川は、北海道開拓史の中で大きな地位を占めている川です。北海道における治水、利水そしてサケマス増殖河川としてパイオニアでありました。
いま、豊平川は130万人を越える都市の中で、美しい管理河川のたたずまいを見せています。川はかつての荒々しさを失い、市民の利益と安全の保障としてみごとに制御されるようになりました。それは生態系の変化であり、魚たちを追い出す人間のエゴであったかもしれません。
私達札幌市民は母なる豊平川にサケを呼び戻す計画をたてました。行政、経済などあらゆる分野の協力を仰ぎ市民総ぐるみの運動に盛りあげるべく考えております。サケから始まる市民意識の高まり。そのインパクトの広がりに大きな期待をもって、いま運動がスタートしました』Come Back Salmonキャンペーンはこうして始まりました。


「豊平川にサケを呼びもどそう」のマークをつくり、「SALMON BABY」という歌を レコードにして全国販売しました。
  会は翌年春にサケの稚魚を放流する計画をたて、放流資金1500万円の募集を決めるなどスピードのある行動で市民の気持ちを盛り上げていきました。
一方、札幌市長や北海道知事を通じて、国にも働きかけました。さらに豊平川の水質、環境を調査し、「現状ではサケがのぼることに対して、何も問題はない」というデータも揃えました。
サケのふ化放流は国の管理であり、行政側も対応を迫られたことから関係の代表が集まり、豊平川サケ連絡会議を発足。石狩川開発建設部、水産庁サケマスふ化場、北海道庁水産部、北海道サケマス増殖事業協会、札幌市、北海道警察本部がメンバーとなり、熱く燃え上がった市民運動「カムバックサーモン」を支援することを決め、実験放流へ踏み切りました。
これで稚魚放流のめどができ、運動が立ち上がって3ヶ月で大きく前進しました。
「札幌サケの会」発起人13人(敬称略)
吉崎昌一(北大助教授)、田中健二(弁護士)、おおば比呂志(漫画家)、井上聡(北大教授)、高橋長雄(札医大教授)、原田康子(作家)、黒田基義(札幌スバル自動車株式会社社長)、菅原安信(ジャーナリスト)、佐野誠三(道水産資源技術開発協会顧問)、吉岡道夫(シナリオライター)、鍛冶滋(魚類研究家)、練子広導(デザイナー)、国松明日香(彫刻家)
【サケよ帰れ!第1回豊平川稚魚放流】1979年(昭和54年)3月8日
板垣札幌市長(故人・前列)も第1回稚魚放流に参加しました。
豊平橋上流の魚釣り場で、市民ら500名が参加して、第1回目の豊平川稚魚放流が行われました。20万尾の稚魚が「いい日旅立ち」のメロディーに送られ、北の海に旅立ちました。板垣札幌市長も4年後の回帰を確信し、自ら稚魚を放ちました。札幌市立東橋小学校3年の児童が「サケの赤ちゃんへおくることば」を書きました。
豊平川にサケをはなしたらどうなるだろう
かえってくるかな かえってこないかな
川がきれいになったらかえってくるかな
かえってくるといいな すむところのない
サケはどうなるのだろう
サケとはなしてみたいな
はなしができればいいな


雪まつり会場に並べられた氷のイクラとイクラ募金箱
放流は運動がスタートしてわずか半年で実現しましたが、関係機関の予想をはるかに超える支援がありました。札幌市の環境局を窓口に開発局、道水産部、北海道さけますふ化場がその中心になりました。そして豊平川の漁業権がなかったことも、放流にたどりつく道のりを、スムーズに進行できた大きな要因の一つでした。また、放流後の密漁問題の心配に対し、道警側は「カムバックサーモン運動が、市民の精神面に与えるいい影響のほうが大切」と、前向きにアプローチ。こうした官民一体の展開が第一回の稚魚放流を大成功にみちびいてくれました。
【豊平川にサケがもどった】1981年(昭和56年)9月15日
1979年の3月に放流した子どもたちが立派になって市民の歓迎にこたえるように、2度、3度とジャンプしてみせた。
カムバックサーモンの第1号は9月15日。札幌市内の真駒内川で発見されました。以後、10月5日に、同市内豊平川の南九条橋上流えん堤に群れをなして回帰しました。
サケは国の財産。全ては水産庁の権限だから、いくらサケが帰ってきても、市民は触れることはできません。そんなもどかしさがあり、だから1尾1尾抱きあげるなんてことはできなかったのですが、市民は「よう帰った」と、それこそ抱きあげたいほどの感動につつまれた瞬間でした。
この年の回帰はシーズンを通じて1500尾前後と発表されました。そしてこれらのサケは、ウロコの検査で3年魚であることが確認。ウロコという身分証明書を提出したのは、体重3.7キロ。体長61センチのオスでした。
サケがえん堤をのぼり、水流に向ってジャンプする姿は、知らないわけではないが、目の前でその事実が展開するドラマチックな動きは、見る人たちに多くの感動を与えました。終日カメラを据えてシャッターチャンスをねらう人。幸運だったら、ジャンプを見ることができるかもしれない、と弁当持ちのピクニック・ウォッチング組もつめかけました。河畔の遊歩道や公園でくつろいだ後で、偶然にも感動的なジャンプを見た人たちも多く、フィーバーは2ヶ月も続きました。
サケが戻ったことで、市民の感動は最高潮に達しましたが、反面、「文字どおり死ぬ思いで帰ってきたサケは、それでどうするの?」「卵を産んで親は死んでいくという、サケのライフサイクルはどうなるの?」という大きな問題が提起されました。
サケがその一生をまっとうできる川にするためには、魚道がいるのではないだろうか。自然産卵ができる環境づくりはどうするのか。
市民ふ化場を豊平川に造れないだろうか。こうした具体的な意見や印象が交錯し、カムバックサーモンのアフターケアが市民の課題として急速に浮上していきました。
市民はサケをより一層身近なものにしました。サケ回帰をロマンとしか感じていなかった人は、現実を目のあたりにして考えが変わったはずです。サケは、この時改めて札幌市民のものになったと言えるかもしれません。
その後、サケが帰ってくる豊平川をきれいな川にしようというキャンペーンが、北海道潜水スポーツ協会とボーイスカウト27団(豊平地区)らの手によって行われました。
サケを戻す運動が、自然環境の復活を考える市民活動へと、変化がここにはじまったのでした。
カラフトマスのつがいも遡上してきました。
参考・引用文献:北海道サケ友の会 20年のあゆみ「碧」平成10年11月13日発行
このページの掲載写真は札幌市豊平川さけ科学館のご許可を得て、『北海道サケ友の会 20年のあゆみ「碧」』より掲載させていただいております。
ページTOPへ