SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

館長のサーモンレポート9

サーモンミュージアムでは、鮭の漁業/サケの養殖事業のコーナーでチリ国のサケ養殖に関するレポートを掲載しています。
また、近年特に人気のサーモン寿司の取材をおこない、バラエティ豊かなサーモン寿司を写真で紹介しております。
日本ではもちろんのことですが、海外でも寿司をはじめとする日本食ブームや世界的な健康志向でサケに人気が集まっているそうです。特に日本ではチリ産のサケの輸入は多く、2011年のデータ*では、日本が年間に消費するサケの量(約39万トン)の約45%(約18万トン)をチリから輸入しています。
(注)2011年のデータ*・・・平成23年度サケマス流通状況調査報告(北海道定置漁業協会)を参照
しかし、今から約40年前には、チリにはサケはいなかったという事実をご存知ですか?
サケが一匹もないチリに、サケを導入する計画「日本/チリ・サケプロジェクト」が、日本とチリで約40年前に始まった事実をご存知ですか?
今回ご紹介する本は、「南米チリをサケ輸出大国に変えた日本人たち」―ゼロから産業を創出した国際協力の記録― 細野昭雄著です。
「奇跡」といっていいほどの困難を乗り越えて、サケのいなかったチリを、世界で1、2を争うサケ輸出国にした「サケ養殖」の物語です。その中でも、とりわけ、初期の段階から、チリで生まれた企業がサケの生産量1000トンを達成するところまでを、抜粋してご紹介させていただきます。
チリにおけるサケ養殖産業の確立・発展年表
  日本/チリ・サケプロジェクトの活動
(JICAとチリ政府の国際協力)
チリ財団を中心とする活動・民間企業などの活動・その他
69 パウロ・アギレラ、北海道で研修。  
70   米国からの寄贈によるロス・ラゴス州でのギンザケ放流移植、失敗/アジェンデ政権発足。
71 チリ南部2州で、第2次河川・湖沼・フィヨルド水生動物の調査。  
72 JICA専門家長澤、白石、チリ到着/サクラマスの発眼卵、到着/白石、急逝。  
73 サクラマスの稚魚、初放流。 ピノチェット政権発足。
74 ソロサケの発眼卵、到着/シロサケの稚魚、初放流(無給餌)。  
75   バレンスエラとムエナ、マス養殖のジャンキウエ社設立。
76 白石孵化場(コジャイケ)完成。 ドムシー社、チロエ島・ポペタン湖にギンザケ卵を運ぶも、暴風雨で流失。その後、クラコデペリスに孵化場建設。
77 シロサケ放流(給餌)。  
78   ドムシー社、ポペタン湖にギンザケ20万匹、クラコデペリスにチヌークサーモン17万匹放流。ギンザケが初めて回帰/ニチロ・チレ設立、ギンザケの卵輸入。
79 JICAプロジェクトタイプ技術協力(プロ技)、スタート。エンセナ-ダバハの陸上池と海面生簀でサケ稚魚の育成、10月から春期の放流開始。 30匹、回帰。ドムシー社、キャンベルスープへ売却/ニチロ・チレ、サケの海面養殖開始/ミティルス社、ギンザケの卵輸入。
80 海洋環境調査開始。 ニチロ、ギンザケ130トン収穫。ミティルス社、海面養殖開始。
81 エンセナ-ダバハ孵化場、完成/海面養殖(洋上生簀飼育)開始/カラフトマス稚魚、初放流。 ドムシー社のロドリゲス、生簀購入/チリ財団、ドムシー社を買収/ミティルス社、チリで初めてギンザケの国産卵20万粒を生産。
82 シロサケから初採卵/湾内回遊シロサケ、回帰。 チリ財団、海面養殖事業化調査(1981~84)/チリ国、累積債務危機。
83 国産ギンザケ導入/BKD(伝染性の細菌性腎臓病)を検出。魚病対策強化。  
84 JICAプロジェクトタイプ技術協力、延長。 チリ財団(サルモネス・アンタルティカ社)、本格的海面養殖開始、ドライペレット飼料工場拡張、モイストペレット飼料工場建設。
85 飼料試験工場の運転開始。 チリから日本へ養殖サケ30トン輸出/「サケ魚病規制法」制定。
86 マガジャーネス州でシロサケ7匹、回帰/良質ペレット(飼料)の生産開始。 ダルカウエにサケ加工工場稼動開始/TVでサケ養殖特集番組放映/このころ養殖用生餌の慢性的な供給不足。
87 カウンターパートをSERNAPからIFOPに変更/シロサケ、最後の放流。 魚病問題深刻化。
88 JICAプロ技のフォローアップ協力、スタート/ロス・ラゴス州、アイセン州などで魚病診断開始。 チリ財団(サルモネス・アンタルティカ社)、養殖サケの生産1000トンに/チリ財団、サルモネス・アンタルティカ社を日本水産に売却/日本へのサケ輸出1000トンに。
89 ギンザケ国産卵生産の開発/湖産大型サクラマス大量回帰。ペレット販売収益増加/初のBKDフリー種苗開発/フォローアップ協力、終了。 日本向けサケ輸出が拡大し、日本が最大の輸出先となる。
90 BKDフリー卵の生産体制確立。 エルウィン政権発足し、民政へ移行。
91   「漁業および養殖に関する一般法」制定。
92 種苗育種開発研究を開始/湖産サクラマス、最後の放流。  
93 サクラマス生息湖の資源調査。  
94 IFOP,ギンザケ初眼卵800万粒生産。 チリ、APEC加盟。
95 アイセン州ギンザケ種苗生産の半分を供給。  
96 チョウザメ養殖開発計画開始。 日本・チリ修好100年。
97   米国、チリ産サケマスのダンピング訴訟。
<注>表右側はチリ財団とその傘下のサルモネス・アンタルティカ社に関する事項。ただし、イタリック体表記はそれ以外の事項。
出典:酒井光夫(1999)をもとに(とくに表の左側)、著者作成(細野昭雄)
第1章 「ゼロからの出発」より
サケプロジェクトの舞台となったコジャイケは主要都市から遠く離れた避地にあり、必要な機械や部品は、すべてセスナ機で町の小さな空港に搬入するしかなかった。

まず、養殖用のハッチェリー(孵化場)の設置場所と、放流する場所を探さなければならなかった。文字どおりゼロからのスタートだった。ふ化場と放流場所の選定は、プロジェクトの成否にかかわる重要な判断を要する。とくに良質の水の確保が必須である。(中略)ゼロからのスタートという意味では、そもそも、稚魚に孵化させるためのサケの卵の確保が必要だった。そこで、地球の反対側の北海道からサクラマス(サクラマスは降海せずに河川や湖沼で育てばヤマメとなる)の卵を空輸することにした。特殊なコンテナをつくり、15万粒のサクラマスの卵が空輸された。これまで前例のない、初めての経験がつづいた。
第2章 「親が育つから子も育つ」より
サケの海面養殖を事業として最初に成功させたニチロ(現マルハニチロホールディングス)
1978年(昭和53年)日本の日魯漁業(現マルハニチロホールディングス)がニチロ・チレ社を設立し、1979年に、チエロ島の向かい側のプエルトモント市近郊で、チリで最初の民間企業によるサケの海面養殖をスタートさせた。これは画期的なことで、事情を知る内外の関係者にとっては大きな衝撃だった。
当時のニチロのチームには、のちにJICAとSERNAP(チリ水産庁)の日本/チリ・サケプロジェクトに参加する根本雄二、新沼昭則がいた。根本は宮城県や新潟県佐渡などでサクラマスやベニザケ、ギンザケなどの養殖に携わった経験があり、チリではギンザケ養殖の現場の管理を担当した。新沼は北洋サケマス船団に長く乗り組み、その後、ニチロのギンザケ海面養殖プロジェクトに6年間携わった。
ニチロは、日本ではすでに養殖技術を蓄積していた。1971年に100%出資の日魯養魚を設立し、シロザケ、カラフトマス、サクラマス、ベニザケ、ギンザケの淡水養殖をスタートさせた。1973年12月には、米国ワシントン州から20万粒のギンザケ発眼卵を輸入して淡水養殖をおこない、1975年秋には、日本で初めて淡水産ギンザケから人工採卵して受精卵を得ていた。
一方、1974年には富士宮養魚場で淡水養殖したギンザケの稚魚を用いて、横須賀市久里浜湾内の生簀で海面養殖試験を開始した。翌年秋には富士宮から稚魚を宮城県志津川町に輸送して海面養殖の企業化試験に着手し、1976年に2.4トン、1977年5.3トンの成魚を水揚げ、出荷し、海面養殖の企業化に成功した。そして同年から、志津川漁業協同組合をはじめとする宮城、岩手両県の漁協と提携したギンザケの養殖事業が本格化した。
養殖事業は順調に発展し、1982年のニチロの養殖ギンザケの販売量は1000トンに達した。
そして、漁協の海面養殖と連携して、種苗、餌の供給、技術の提供をおこなうとともに、 全国の販売網を通じて、養殖サケの販売をおこなった。
ニチロのこうした経験と技術の蓄積が、チリにおけるサケの海面養殖事業に生かされたのである。
ニチロ・チレは、1978年前半から漁船による沿岸調査をおこない、養殖適地を選定し、養殖地をプエルトモントに決定した。そして1978年12月、米国からギンザケの発眼卵を搬入し、養殖事業を開始した。養殖は順調におこなわれ、1981年に、チリで初めての海面養殖によるギンザケ130トンが水揚げされた。
ニチロのチリにおける養殖事業は小規模ながら、初めてチリでサケの海面養殖が商業的に成り立つことを実証した画期的なものだった。(中略)
三菱商事の工藤章も著書で、「チリで記念すべき海洋養殖の商業生産第1号は、日本企業(1981年、日魯漁業=現マルハニチロ食品)だった。このプロジェクトには三菱商事も参加し、初出荷された銀ザケを輸入販売している」と述べている。
チリ政府も、ニチロがギンザケの養殖を通じてチリの経済、産業の発展に貢献したことに感謝し、ニチロの社長にベルナルド・オ・ヒギンズ勲章を授与した。
このニチロのプロジェクトは、コジャイケの日本/チリ・サケプロジェクト、ドムシー・ファームズ社のチロエ島のプロジェクトのいずれにも影響を与えることになった。
民間パイオニア企業の対日ギンザケ輸出の拡大
この経緯から、ニチロ、そしてミティルス社(のちにマレス・アウストラレス社と改称)が、小規模ながら、サケの海面養殖を最初に軌道に乗せた民間企業のパイオニアだったといえる。
ニチロの日本への最初の輸出は、1985年の30トンだったが、88年には他社からの買付け分を含め、日本の買付け企業4社からの日本向け輸出量が初めて1000トンを超えた。(後略)
第3章 「企業化へのテイクオフ」より
整ったテイクオフへの準備
(前略)ニチロは当初、淡水養殖施設を持っていなかったが、海面養殖開始後、淡水養殖施設も建設した。そしてニチロの成功を見たミティルス社が海面養殖に成功することにより、いよいよ機は熟していった。
その意味では、ニチロが海面養殖をはじめた1979年(昭和54年)は、チリのサケ養殖産業の発展にとって記念すべき年だったといえよう。
本格的商業生産のパイオニア、サルモネス・アンタルティカ社
画期的ともいうべきニチロのサケ養殖の成功のあと、サケの本格的商業生産に向けた新たな飛躍が起こった。チリのサケ産業のテイクオフのときが、いよいよ近づいたのである。
その第一歩は、1981年にチリ財団が、キャンベルスープ傘下のドムシー・ペスケーラ社が所有していたチロエ島のクラコ・デ・ベレスなどの施設を買収したことによって踏み出された。これが、チリ財団がサケ産業に本格的に参入する出発点となった。
チリ財団は、買収の1年後、ドムシー・ペスケーラの社名をサネモネス・アンタルティカ(南極のサケの意味)社に変更した。(中略)
チリ財団は、日本流にはチリ産業技術開発機構とでも呼ぶべき、半官半民の組織である。
チリ財団という名前から、単に資金を持っていて、良いプロジェクトなどに補助する機関のようにとられがちだが、自ら産業の確立に必要な技術開発をおこない、企業を興し、それが成功すると、その企業を売却して成果をあげ、国際的にも注目されている機関である。
中南米に例のない、このユニークな機関は、チリ政府が米国の多国籍企業への補償をおこなう協議のなかで生まれたものだ。(後略)
チリ財団は企業化をめざし、JICAとSERNAPが補完した
チリ財団が海面養殖を開始した2ヶ所のうち、一つは日本/チリ・サケプロジェクトのエンセナーダバハ近くのプエルトチャカブコにあり、チリ財団と日本/チリ・サケプロジェクトの間にはさまざまな協力や交流があったことを、当時の関係者は語っている。
リカルド・ロドリゲスは、チロエ島での放流で、チヌークサーモンが回帰してきたときには、コジャイケからも多くの人が訪れたという。
また、「チリ財団のアイセン州での拠点がプエルトチャカブコにあったから、エンセナーダバハとは目と鼻の先であり、コジャイケにも近く、SERNAPとJICAの日本/チリ・サケプロジェクトの試験設備(ラボラトリー)なども利用させてもらった。餌も買わせてもらった」とも述べている。
水の特性分析には、その試験設備が役立ったし、BKD(細菌性腎臓病)に関しても、日本人の専門家からアドバイスを受けた。当時の網には結節(結び目)があって、サケの皮膚に傷がつきやすく、そうすると菌類にすぐ感染したので、この問題の対応にも助言してもらったという。
一方で、半官半民のチリ財団より先に海面養殖に取り組み、商業化に先鞭をつけたニチロの成功も、チリ財団に大きな影響を与えた。
ニチロの記録によれば、「ニチロのギンザケの海面養殖の経過を注視していたチリ国のチリ財団は、ニチロの海面養殖の成功を知り、早々に養殖企業化試験を開始した」とされる。
つまり、チリ財団は、ニチロの成功を確認して企業化試験を開始し、それに必要だった調査にSERNAPとJICAの日本/チリ・サケプロジェクトが協力したということができる。
(後略)
1988年、チリ財団は生産量1000トンを達成する。
(前略)チリ財団は、アイセン州での海面養殖の事業化研究プロジェクト(FSないしパイロットプロジェクト)を経て、1984年にギンザケの生簀による本格的な海面養殖をロス・ラゴス州のチロエ島チャンギタッド、アイセン州プエルトチャカブコで開始した。
つづいて1984年~85年には、ドライペレットの飼料工場を拡張するとともに、チロエ島のダルカウエにサケのモイストペレット(練り餌)工場とサケ加工工場の建設を決定し、1986年に操業を開始した。
チリ財団のサケ事業は、財団の子会社サルモネス・アンタルティカ社のもとで、「1000トン計画」として推進された。その結果、1985年に労働者200人、技術者15人だった同社は、短期間で発展し、1988年には労働者600人、技術者30人となり、生産量1000トンを達成した。チリで最大のサケ養殖企業となったのである。(後略)
チリのサケの相手国別輸出量
出典:地球選書001「南米チリをサケ輸出大国に変えた日本人たち」
ゼロから産業を創出した国際協力の記録
著者:細野昭雄<<国際協力機構(JICA)研究所シニア・リサーチ・アドバイザー>>
発行:2010年8月12日
ダイヤモンド社
著者紹介:細野昭雄 HOSONO Akio
国際協力機構(JICA)研究所シニア・リサーチ・アドバイザー/1962年東京大学教養学部教養学科卒業/アジア経済研究所調査研究部、国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会、筑波大学社会工学系教授・国際総合学類長・同大大学院国際政治経済学研究科長・同大副学長、神戸大学経済経営研究所教授、在エルサルバドル共和国大使、JICA国際協力総合研究所客員国際協力専門員、政策研究大学院大学教授、JICA研究所所長を経て現職。
 
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