SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

第8回カムチャッカ半島の民族集団「コリヤーク」について(2)

ホロロ祭りを行なうために、夏のうちから必要な食料や材料を蓄えておかなければならない。漁場でのヤナギランの果汁採り(イルプィリにて)


カムチャッカ北部の集落
「鮭の民」の調査や取材を通じて、強く感じることは、狩猟民である彼らの獲物に対する思いは、「感謝の心」と「豊穣への願い」ということです。
彼ら狩猟民としての獲物にたいする儀式や日常の生活態度は、長い経験と知恵から生まれ出たものであるように思われます。
狩猟という「殺すもの」と「殺されるもの」の関係と意識。
憎くもない動物を殺さなければならない矛盾。
「食べるもの」と「食べられるもの」の意味を人はどのように昇華、納得、鎮魂していったのか。
そこに獲物たちへの「魂送り」儀式があると思うのです。
豊饒を願い、狩猟を行う、人間と動物の関係性。狩猟と魂送りは、切っても切り離せない精神性があるのだと思います。
アイヌの初鮭への祈願(アシリ・チェブ・ノミ)や熊送り(イヨマンテ)と同じように、カムチャッカの海岸コリヤークにも魂送りの儀式があります。海岸コリヤークの魂送りは、アザラシの魂送りと熊送りを一緒にする「ホロロ祭り」という儀式です。ここにカムチャッカのコリヤークについて学術調査を行った小樽商科大学 言語センター 大島 稔教授のご協力を得て、ホロロ祭りの内容も含め、海岸コリヤーク文化の伝統と現代についてご紹介させていただきます。
海岸コリヤーク文化の伝統と現代  大島 稔
コリヤークの伝統的生活

冬の氷穴でコマイ・キュウリウオ釣り(オッソラにて)
ツンドラと針葉樹林がパッチワークのように織り成すカムチャッカ北部に居住する先住民コリヤークは、長年にわたりトナカイ遊牧を生業の一つとしてきた。コリヤークいう民族名の由来も17世紀初頭に初めてカムチャツカに進出したコサック兵が何度も耳にしたコーラク(qora-k「トナカイの-そばで」)という語が起源であるといわれている。

カムチャツカ半島の先住民コリヤークは、伝統的に北太平洋沿岸の代表的な生物資源であるサケ属魚種やアザラシ類、セイウチ、トドなどの海獣類、シロイルカなどの鯨類、ヒグマや野生トナカイ、シベリア・ビッグホーン、ヘラジカなどの大型陸獣を利用し、自らの生業としてきた。半島の北部では、トナカイ遊牧も重要な生業であった。さらに17世紀末以降は、ロシア帝国の植民地化が進むなかで、クロテンやアカギツネなどの毛皮獣狩猟が経済活動として重要になり、また、伝統的な野生植物採集加えて、ジャガイモなどの寒冷地に適した作物の栽培やキュウリ、トマトの温室栽培も先住民の経済活動として重要になっている。

コリヤークは、内陸に居住し、狩猟・漁労・植物採集の他に大規模トナカイ遊牧を経済活動の中心に置くチャウチュワン(原語chawchEvan「移動する者」)と海岸定住コリヤーク(自称ヌムルアン:原語nEmElHEn「村を持つ者」)に分けられる。海岸定住のコリヤークは、オホーツク海とベーリング海の沿岸及び河川域に居住し、漁労・海獣猟・陸獣猟・植物採集を経済活動の中心とし、小規模なトナカイ遊牧を行ってきた。
経済・社会生活の変化
氷下網漁(イルプィリにて)
海岸定住コリヤークが数多く居住するカラギンスキー地区では、ソ連時代にコルホーズ、ソホーズが形成され、さらに1950年代後半から始まるトナカイ飼育の大規模化、近代的都市と施設の建設により、居住地がつぎつぎと統廃合されていった。住民は、故郷を捨て新しい土地に住むことを余儀なくされ、近代化された教育、医療などの生活を享受できるようになる一方で多くの伝統文化が失われるのを見てきた。特に各村で小規模に行われていたトナカイ遊牧がティムラート村1箇所のソホーズに集約されたことは伝統保持に大きな痛手であった。
トナカイ遊牧は、各村から消えたが、伝統的生業のアザラシ狩猟、各種漁労、鳥猟、陸獣狩猟、植物採集は、現在も行われており、ソ連解体後、特に多くの人が公務員という職を失ったが、小さな菜園での農業と、漁撈であるいは採集や狩猟で生計を立てている。
カラギンスキー地区における移住・廃村の歴史
1959年 旧アナプカ村から新アナプカ村へ移住。
1960年 旧カラガ村から現在のカラガ村へ移住。
1960年 キチガ村が廃村。
1974年 新アナプカが廃村となり、イルプィルで漁業に特化
1980年 レキニキ村が廃村となる
ホロロ祭り
夏の漁場の倉庫に貯蔵したイチゴ類(イルプィリにて)
アザラシ狩猟を行う狩猟者にとって大事な祭りにアザラシの魂送りであるホロロ(Hololo)祭りがある。この祭りに参加することができた。
ホロロ祭りは、アザラシなどの海獣猟の終わりを告げる祭りである。この祭りは、昔は、東海岸のキチガやカラギンスキー島の村、西海岸のレキニキでも行われていたことが確かめられている。これらの村は廃村になったので、もちろん現在は行われていない。現在では、11月から12月にかけて、カラガ、オッソラ、ティムラート、イルプイリ、レスナヤで実施されている。

木製器でトルクーシャ作り(オッソラにて)
12月に入った満月の後、次の満月までの月が満ちはじめる第一期の間は、先祖は海での活動をしなかった。釣竿での漁のみが許された。この時期には悪霊が狩猟をするという伝説があるからである。もし誰かが敢えて狩猟をするとその人は死ぬという。
この考えに基づき、10月から12月にかけてホロロ祭りが各家(拡大家族)で行われるのが伝統であった。アザラシ狩猟を今でもやっているのだが、この祭りを行なうためには、アザラシの狩猟はもとより、植物採集、漁労などを夏に行ない祭りに必要な食料や材料を蓄えておかなければならないし、客に振舞うパン、紅茶、砂糖、お菓子など料理の材料を店から買う必要もあり、生活に余裕がないとできない場合が多い。祭りを催せる家族が単独であるいは共同して、毎年ではなく数年おきに細々と続けられて現在に至っている。
アザラシ送りの時に裏返しに着た犬の毛皮のコート(イルプィリにて)
祭りの当日、女達は、朝から料理を用意し、男達は、森に行き、仮面と木偶、棒引き(綱引き)の棒、ブンブンコマのプロペラを作る材料のハンノキの木と枝を採って来る。
ホロロの主催者は、朝早く起きて家の至るところに聖なる草ラウータン(ハマニンニク)を結びつける。また、主催者はすべてがうまく行くように、朝、ストーブの上に、アザラシの革紐と木偶とを結んで下げる。アザラシが客であるという意味だ。客が来る前に火に供物を捧げる。

女達の祭りの準備は、夜中から練り物(トルクーシャ)(tilqEtil)作りから始まる。夏の漁場で準備したヤナギランの内皮の果汁を乾燥したものを石で搗(つ)く。それに夏に準備したサケの乾燥した魚卵の粉末とアザラシの油を加えながら搗(つ)く。白くなったら出来上がりで、夏に用意した3種類のベリー類(黒いホロムイイチゴshiksha,赤いコケモモbrusnika,橙色のキイチゴの類maroshka)を1種類ずつ別々に加え、(粒を残すために搗(つ)かない)3種類のトルクーシャが出来上がる。イチゴは少し果汁を切ってから混ぜる。


犬の毛皮コートの正常な着方(イルプィリにて)
アザラシの脂肪とトルクーシャを木製器(utkamaNa)に入れて供物としてストーブの近くに用意する。ラウータンの草の束も用意する。供物は器に入れてアザラシの皮の上に置くのが本来だ。

客が着くと歓迎の意味でラウータンの草を一人ずつ渡す。客は、祭りの間に悪いものがすべて消えるようにと、家族の人数分の本数の草を小指に巻きつけるか、体や衣服の一部に結える。その呪術の草に触ると悪霊が払われ、その人は健康に暮らせると考えられている。
午後4時頃に祭りが開始された。アザラシを獲った者は、ハンノキの股になった小枝(コリヤーク語でkamakという)をアザラシの木偶として、聖なる草ラウータンを結ぶ。この時、送りをする猟師は、皆、クフリャンカ(上着のコート)を裏がえして、帽子を後ろ前にして着る。猟師はいつも陸にいるものなのでアザラシの魂と一緒に海に行ってしまわないようにするためだ。アザラシが無事海に着くと服の向きを正常に戻す。
ブンブンコマの主人(イルプィリにて)
狩猟者は、自分が獲ったアザラシの数の2倍の木偶を作って送る。もしアザラシを1頭殺したら、2本送り、2頭獲れたら4頭送る。これは、夫婦にして送るという意味だそうだ。

まず供物が火に捧げられる。これは最初に火をなだめなければならないからだ。つぎにトルクーシャ(混ぜ物)とアザラシの脂肪を木偶に与え、「飲ませる」とつぶやいて、水を飲ませてから、アザラシの木偶を火にくべ入れる。アザラシの油とラウータンを何度も火にくべる。アザラシは、海へ送られる準備をしてもらって喜んでいる。海で安全に猟ができるように、海がしけらないようにとアザラシをなだめるのだ。土産を持ってアザラシは海に帰る。アザラシの木偶を燃やすとき、ドアを開けて、アザラシが出ていくのを邪魔しないようにする。木偶を火にくべるときは誰も太鼓を鳴らしてはいけない。海が嵐になるのを避けるためである。
女達はクフリャンカで正装し、太鼓なしで一斉に海の方に顔を向け、海の波を真似た踊りでクフリャンかの裾を振ってみんなが同じ踊りでアザラシを送り出す。


野外のブンブンコマ回し(オッソラにて)
アザラシが早く海に着くためには火を大きくしなければならない。アザラシ油をどんどん火に入れる。アザラシが海に到着したと判断すると踊り手は皆反対向きになり、陸の方を向く。ホロロの声(喜びの声)とともに太鼓にラウータンを巻きつけて歌と踊りが始まる。
全員が踊り出すとアザラシは海で満足する。アザラシが行ってしまうと皆トルクーシャを食べなければならない。味見だけでもよい。一人一人がトルクーシャを味わうと幸せで健康になるという。
ブンブンコマ(コリヤーク語でtalitEl)を2本作る。プロペラには、コケモモの赤い果汁を塗り、トルクーシャをなすりつけ、アザラシ皮の革紐を通す。同時にハンノキの二股の小枝に目と口を刻み、ブンブンコマの主人の木偶(コリヤーク語でtalekamak)を2本作る。これにラウータンを結ぶ。これをプロペラの両側にラウータンで結びつける。
ブンブンコマは、屋外の柱に一方を固定し、屋内で男が一人または二人でブンブンコマを回す。皮紐が切れるまで回す。その後、屋外でもブンブンコマを回し、これも切れるまで回す。

最初のブンブンコマの皮紐が切れた時、祭りの主催者は、「木を持って始めろ」と言うと、綱引きならぬハンノキの棒引きが始まる。棒をひっぱっている時に、皆は願をかけることができる。男女の別なく、家の外と内に分かれて綱引きを行なう。棒引きは、なるべく屋内の者が勝つようにする。家に引き込んだ分は屋内で燃やす。外に引き込まれた分は、祭りの後で燃やす。
つぎに2人の仮面の男が入ってくる。服装は男と女の服装で、夫婦として入ってくる。
これらの仮面は、家に残す事はできない。祭りの後、人の近づかない離れた森やツンドラに置いてくる。木はたくさんの悪いエネルギーを吸収したから、置いてくるのだ。森でそのような仮面を見つけたら、すぐにその場を離れるようにする。
その後、夜通し太鼓のリズムで歌い、踊る。
アザラシを送った後に狩猟したクマなどを一緒に送ることがある。普通は、獲ったごとに送るが、皮さえあればいつ送ってもよいので、アザラシ送りの時に送ることがある。狩猟者は、皮をかぶって登場し、皮を床に置くと、トルクーシャの供物をささげ、皮の周りを時計回りにめぐりながらしずかに踊り、送った後、供物を皆で一口ずつ食べ、喜びの踊りがまた、始まる。
このようなアザラシ送り儀礼であるホロロ祭りは、海岸定住コリヤークに現在まで続く伝統文化である。各村で各家族ごとに行なわれていたのだが、現在では、アザラシ狩猟はするがアザラシ送りはしないという家族も増えているという。
(おおしま みのる/小樽商科大学言語センター)

引用・参考文献
『北海道立北方民族博物館 第21回特別展 環太平洋の文化Ⅰ コリヤーク ―ツンドラの開拓者たち―』発行:財団法人北方文化振興協会 平成18(2006)年7月14日発行

北海道立北方民族博物館
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