鮭と食
イクラはサケの卵である筋子(すじこ)をほぐしたものです。
「イクラ(ikra)」は、元来ロシア語で「魚卵」のことを意味しています。ですからロシアではたらこもチョウザメの卵であるキャビアもすべてイクラと呼ばれています。(キャビアは魚の腹子を意味するトルコ語「カハービヤ(khaviar)」が語源)
日本では「イクラ」という名前は、明治末には知られていたと考えられますが、当時はまだ一般的ではなく、大正時代末から昭和の初めに人々に知られるようになりました。それは北洋におけるサケマス漁業の発展により、この時期から一般に「日魯のイクラ」の缶入りが市販されるようになったからといわれています。
●平安時代、醍醐天皇 延喜5年(905年)の延喜式(えんぎしき)にはサケとその加工品として「内子鮭」の名が記載されています。これは「こごもりのさけ」と読み、子籠りの鮭、つまりすじこをもったサケを表しますが、どんな加工処理をしたかまではわかっていません。
●江戸時代の「本朝食鑑」(元禄8年・1697年)にイクラは「はららご」として記載されています。そこには塩漬けにした筋子をほぐしてばらばらの粒にしたものだと書かれています。ただしこれは天日乾燥した保存食で、現代のような生のイクラではなかったようです。また、「松前産物大概鑑」(まつまえ さんぶつ たいがいかがみ)(文化年間1804~1818年)には「ぞろり子」という記載があり鮭子/筋子を一粒づつ放して塩漬けしたものと示されています。
●明治37年~38年(1904~1905年)日露戦争の際のロシアの捕虜がキャビアの代用品としてイクラをつくったとの説もあります。
●明治39年(1906年)アムール川の下流の漁民が圧搾イクラ(粒イクラをつぶにしたもの)を食べていました。この頃には粒イクラもありました。
*圧搾イクラ…バュスナヤ・イクラ 粒イクラ…ゼルニスタヤ・イクラ
●明治40年以降イクラはカムチャッカでのサケ・マス漁業の発展によって、ロシア人から伝わったとの説があります。
●大正時代には粒イクラの製造(樽詰め)がはじまりました。
●昭和初期になると、ニチロ(現マルハニチロホールディングス)ではカムチャッカの工場でイクラを製造樽詰めにして函館へ運び、函館で缶入り(注意:缶詰ではない)をしていました。一部はカムチャッカでも缶入りをつくっていました。
親魚から原卵を採取する。
鮮度良好なもの、熟度の適したものを選別。
卵膜・すじを取り除き、卵が一粒ずつほぐれるように分離させる。
飽和塩水にて、魚種別に所定の時間攪拌する。
水切り
チルド帯で熟成
親魚から原卵を採取する。
内臓、異物、不適卵等を除き十分に原卵を洗浄する。
所定の時間攪拌する。
低温にて十分水切りを行う。
製品規格に合わせ、サイズ選別を行う。
製品規格に合わせ、箱詰めを行う。
重圧を加え、2~3日熟成させる。
製品の出来上りを検査する。
検品後、更に5~7日間熟成する。
製品は冷蔵又は冷凍で、保管する。