あけぼの百年ブランド史

帆船宝寿丸の出航とともに幕を開けた北洋漁業。
その3年後に生産された704函のサケ缶が、最初の「あけぼの さけ」となった。
その歴史は、苦境のたびに再生をとげてきた
日本のサケ・マス漁の歩みそのものと言える。
「百年ブランドあけぼの」には、北洋の開拓以来、
サケと共に生きた日本人の誇りと意地と情熱とが詰まっている。

1905

39

堤清六(26)と
平塚常次郎(25)が出会う

 

 

 

 

堤清六平塚常次郎
堤 清六(左)と平塚常次郎(右)
1907

40

堤商会設立・宝寿丸初漁

1910

43

ウス・カム漁場に
缶詰製造設備設置
サケ缶704函を生産

初めてのサケ缶

ウスチ・カムチャッカ243号漁区に小規模缶詰工場が設営された。
従業員10名、92日間の操業で1ポンド(450g)の縦缶322函、平缶382函、計704函を生産。当時の缶詰はブリキ板を足踏み機で切断するなど、人力頼みだった。

1913

2

DAY BREAK 
BRANDの登場
赤白黄3色の商標を使用

日本初のサニタリー缶

アメリカン・キャン・カンパニー(ACC社)から自動製缶機と缶詰機械1連を購入。オゼルナヤ工場において、日本初のサニタリー缶(衛生缶)の大量生産を実現。毎分120缶の生産能力を得る。
缶詰製造に飛躍的進歩をもたらし、製缶業分業化への道を拓く。

1929

4

母船式サケ・マス漁業開始
缶詰が母船で
生産されるようになる
初年度生産16,000函

サケ・マス漁全盛期へ

昭和7年 神武丸、信濃丸の母船2隻に独航船10隻、漁夫600名という船団で出漁。ベニサケ90万尾、シロサケ23万尾、マス36万尾を漁獲。塩蔵及び缶詰7万函(ベニサケ6万函)を生産。カムチャッカを現場、函館を基地として、全国に商品を流通させていく。

1953

28

大型母船
明晴丸5,603t出港

「サケで潰れるなら本望」

母船式操業の事業化には莫大な資金を要し、金融筋の大反対を受ける。しかし社内では「万一失敗しても、サケで生まれた会社が、サケで潰れるのは本望」との主張が大半を占めた。
缶詰製造1ラインを載せた明晴丸は、初出航で好成績を上げる。

1962

37

1函96缶入が48缶入に

小型缶の需要拡大

1960年の1LBT缶生産中止に伴い、1961年、小型缶需要拡大へ向け、F3号缶が木函96缶入りで生産開始。

1977

52

200海里時代突入

工船サケ・マス缶詰生産終了

漁業専管水域200海里時代に入り、各国が資源の主権を唱え始める。母船式サケ・マス漁業は縮小。信濃丸・喜山丸の2船団を残すのみに。サケ・マス漁獲割当の激減と、冷凍品価格の堅調な推移から、工船によるサケ・マス缶詰の生産を断念。

1982

57

缶型の変更

T2号缶(ツナ2号)

それまでサケ缶の主流だったF2号缶が、原料の高騰からT2号缶に切り替わる。ツナ缶の普及で同サイズへの抵抗がなくなったことも理由。

1988

63

母船式北洋サケ・マス船団
最後の操業

喜山丸
喜山丸

最後の母船が……

最後の1船団喜山丸が最後の航海を終え、37年間に渡る北洋母船式サケ・マス漁業の歴史に幕を下ろす。

1995

7

「あけぼの さけ」がイージー
オープン缶に

EO缶あけぼのさけ「EO缶あけぼの さけ」
2001

13

復刻版「あけぼの さけ」
発売

「復刻版あけぼの さけ」
2005

17

マルハニチロ食品公式サイト内
「サーモンミュージアム」
オープン

“鮭のバーチャル博物館”開館

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2010

22

1910年の初生産から
「あけぼの さけ」100周年

おかげさまで100周年 あけぼのさけ