もっとわかるヒストリーvol.3 【マルハとニチロ】
戦後・ゼロからの再出発、日本漁業の復活にかけた想い

戦後、日本の漁業は文字通り無に近い状況から再出発しました。
戦前に活躍の舞台とした国際漁場はオホーツク海からインド洋まで広範囲にわたっていましたが、敗戦でその大半を失ったのです。
さらに、戦禍により漁船や冷蔵施設、工場などの大半が消失しました。
また、マッカーサー・ラインと呼ばれる漁区が設定され、限られた場所でしか漁業を行うことができなくなってしまいました。
それは、マルハ(当時の社名:西大洋漁業統制)も、ニチロ(当時の社名:日魯漁業)も同様でした。

マルハ

マルハ戦後の食糧難から国民を救うために、
漁船の大量建造に着手

終戦直後の混迷の中、マルハは終戦からわずか8日後の8月23日、戦後初の役員会で漁船の建造を決断し、再建の第一歩として大量の漁船の建造に着手しました。
創業者であり当時社長だった中部幾次郎(なかべいくじろう)の「食糧の生産こそ焦眉の急務だ。
そのためには急速に漁船の建造に着手して漁業を復活させることだ」という決断のもと、
戦後の食糧難から飢えた国民を救うために、それまで蓄積してきた資本を漁船の建造に投入したのです。
そして、中部の至上命令のもと、トロール船、底引漁船カツオ・マグロ船、捕鯨船など計200隻以上を建造しました。

この漁船の大量建造により、段階的に行われた漁区の拡張や、1946年8月に許可された南氷洋出漁に対応することができ、着々と漁獲量を回復していったのです。
また、戦後の民主化政策の影響により、西太平洋漁業統制会社から大洋漁業株式会社に社名変更した、マルハの1947年中の所有漁船は戦前の規模にまで達しました。
戦後の食糧難を救うために、人々を救うために、国を救うために。
この中部の思いが、マルハの再出発につながり、日本の復興に貢献しました。

冷蔵運搬船、冷凍運搬船を相次いで竣工
冷蔵運搬船、冷凍運搬船を相次いで竣工
戦後第一次南氷洋捕鯨出漁
戦後第一次南氷洋捕鯨出漁
ニチロ

ニチロ経験のない遠洋カツオ・マグロ漁業へ進出

終戦によりカムチャッカ、北千島、樺太にあった莫大な資産と事業の97%を失ったニチロは、主力の北洋におけるサケ・マス漁業が、マッカーサー・ラインの漁業制約下に置かれたために困難になり、それまで取り組んだことのなかった底引き漁業や遠洋カツオ・マグロ漁業、北海道沿岸漁業に進出することになりました。
また、北海道の各工場で缶詰、塩干品などを製造し、水産加工業への進出を図りました。

なかでも、いち早く心血を注いだのがカツオ・マグロ漁業でした。1946年、日魯漁業は社運をかけて久里浜支社を開設し、遠洋カツオ・マグロ漁業を開始。
この久里浜支社は、カツオ・マグロを原料とする総合食品工場を併設する大規模な水産工場で、冷凍工場、加工場なども建設されました。

しかし未経験分野における遠洋漁業は、ノウハウが少なく、厳しい船出でした。不漁に加えて、資材不足、価格変動、海難事故など数々の苦難が襲い、初年度から赤字が続きましたが、1952年にマッカーサー・ラインが撤廃されたことが転機となり、日魯漁業はマグロ漁船の大型化と近代化を進めて世界の海へ進出します。その結果、同時期に再開されたサケ・マス漁業とともに、マグロ漁業は基幹事業として確固たる地位を築き上げました。

遠洋カツオ・マグロ漁業へ進出を図る
遠洋カツオ・マグロ漁業へ進出を図る

ピンチを乗り越え加工事業へ、
魚肉ソーセージ「サーモンソーセージ」発売

好調だったマグロ漁業ですが、1954年に「ビキニ事件(太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁でマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝した事件)」が起き、
たちまち魚価が大暴落し、大打撃を受けてしまいます。そしてこの事件発生以来、被災していないマグロまでが敬遠されることになり、
久里浜支社で冷凍保管していた大量のマグロ類をいかに販売するかが大きな課題となりました。

そこで久里浜支社では、技術陣が総力を結集して、マグロの加工利用法について研究を始めました。その結果、つくられたのがフィッシュソーセージです。
マグロ類に、サケ・マス缶製造の際に冷凍保管されたサーモンフレークを配合。
当時、他社では一般的に配合されていた鯨肉を一切使用しなかったこの独自の魚肉ソーセージは、
1955年「サーモンソーセージ」として発売され、大ヒットしました。加えて、独自のセロファン包装の衛星面の高さとデザイン性の良さも話題になりました。
その後、広島、山形、札幌に相次いで食品工場を新設。
さらに、ニチロの市販用冷凍食品第1号の発売を経て、陸上加工部門の増強に乗り出します。

日魯漁業のマグロ漁業は、ビキニ事件の風評被害を乗り越え、1957年にはマグロ艦保有総トン数、生産力において日本一となりました。
また加工事業の成功により、魚価の変動に左右されにくい安定的な経営基盤を手に入れることができました。苦難続きだった戦後のニチロ。
しかし、未知の分野に挑む開拓精神と、ピンチをチャンスに変える技術力が、新たな未来を切り拓きました。

久里浜支社で生産開始されたフィッシュソーセージ
久里浜支社で生産開始されたフィッシュソーセージ
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