もっとわかるヒストリーvol.2 ニチロ創業アムール川河口のブロンゲ岬で出会った
二人の青年がはじめた、画期的なサケ缶事業

二チロ創業の礎は、新潟県三条市出身の堤清六(当時27歳)と、北海道函館市出身の平塚常次郎(当時26歳)の二人の青年が、
1906年に偶然、出会ったことからはじまります。共に世界での活躍を夢見る二人の出会いは、ロシア沿海州・アムール川河口のブロンゲ岬でした。

平塚は魚の買付と漁労に来ており、呉服商の家に生まれた堤は、日用雑貨の見本を持って行商をしながら貿易の下見に来ていました。
そのとき平塚は堤へ「銀鱗おどる無限のサケ相手のロシア領漁業には、大きな夢がある。これからは、サケのビジネスだ!」と、ロシアでの漁業の可能性について、
熱弁をふるいました。堤は平塚の話に感動して、いっしょにサケ事業をやろうと再会を約束しました。

ニチロの創業者・堤清六
ニチロの創業者・堤清六
ニチロの創業者・平塚常次郎
ニチロの創業者・平塚常次郎

宝寿丸でカムチャッカに出航、
サケ・マスの大群と遭遇

帰国後、日本に戻った堤はすぐさま行動します。資金調達に奔走し、北洋出漁のための帆船「宝寿(ほうじゅ)丸」を購入。
その後、約束通り平塚と日本で再会し、二人は同年1906年11月、北洋出漁を目的として新潟県三条市に『堤商会(ニチロの前身)』を設立。
カムチャッカでのサケ事業を目指し、翌1907年6月に、宝寿丸で新潟港を出港します。
その時、カムチャッカ河口は、銀色の大洪水のようなサケ・マスの大群が襲来しました。堤と平塚は、この北洋の富に大きな感動を覚えたと言います。
情熱をたぎらせた青年二人が、北洋の開拓に乗り出した、まさにそのときがニチロの幕開けとなりました。

宝寿丸は同年10月、漁獲した1万尾と買い付けた2万尾の大漁のサケを積んで、新潟に戻ってきます。
しかし、宝寿丸が運んできた“紅サケがたくさん混ざっている”サケは高値で売ることができませんでした。
シロサケやギンザケなど白い身のサケに慣れていた日本人にとって、紅サケの見事な真紅の肉は馴染まなかったのです。

堤清六が入手した帆船「宝寿丸」。
堤清六が入手した帆船「宝寿丸」。
1907年、日本の北洋漁業第一号として新潟港からカムチャッカに出航
「宝寿丸」が持ち帰ったサケには、日本では歓迎されない紅サケが多く混ざっていた
「宝寿丸」が持ち帰ったサケには、当時の日本では歓迎されない紅サケが多く混ざっていた

発想の転換でサケ缶詰を
大量生産し、欧米を席巻

せっかく運んできたサケが売れない…この窮地を好機に変えたのが、「紅サケの缶詰は外国市場でよく売れる」という発想の転換でした。
二人は缶詰製造に踏み切る決意を固め、水産教習所に協力を仰ぎながら優良漁場であるカムチャッカに工場を建設。さらに日本産ではなく英国産の塩を使用、
最新鋭の高速自動式缶詰機械の導入など、新たな試みを行って1910年にカムチャッカで鮭缶詰の大量生産に成功しました。

そして堤商会は、1913年に、日本最初の衛生缶を使用した缶詰の工業的な大量生産を開始しました。
この革新的な衛生缶は、北洋における最優秀品として欧米を席巻しました。
このとき生まれたのが、現在まで110年以上愛され続けている「あけぼの印」(DAY BREAK BRAND)です。
その後堤商会は北洋漁業を中心に世界有数の漁業会社へと成長していきました。
海に夢を託した二人の青年の出会いが、漁業の発展、日本の缶詰製造の革新と飛躍的な進歩につながっていったのです。

1910年当時、カムチャッカの缶詰工場の様子
1910年当時、カムチャッカの缶詰工場の様子
「DAY BREAK BRAND」ブランドの缶詰を製造していたオゼルナヤ工場
「DAY BREAK BRAND」ブランドの缶詰を製造していたオゼルナヤ工場
110年以上愛され続けている「あけぼのさけ」缶
110年以上愛され続けている「あけぼのさけ」缶
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