サーモン110問 全解答

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問題1 サケにはいくつもの種類があります。そのうち、日本の川から海に出て、また日本の川に帰ってくる(回遊)代表的なサケは、シロサケ、カラフトマス、サクラマスの3種です。カラフトマス、サクラマス、ニジマス、マスノスケは名前にマスがついていますが、サケの仲間です。現在の分類では、サケもマスも同じ仲間だと考えられ、サケ科として分類されています。
問題2 サケの仲間は、背びれと尾びれのあいだに「あぶらびれ」という小さなひれがあるのが特徴です。
問題3 シロサケは海の回遊から3,4年後に出発した川に帰ってきます。カラフトマスは2年後、サクラマスは約1年後。
問題4 春に日本を出たシロサケは、8~11月までオホーツク海で過ごします。12月ごろにオホーツク海を出て北太平洋で冬を越し、5月ごろから夏にかけて北太平洋からベーリング海に移動します。11月まで過ごすと次にアラスカ湾に移動し、5月ごろまで過ごします。夏場はまたベーリング海に移動し、その後、行ったり来たりして過ごします。そして卵のときから3,4年後の9月から12月に日本のふるさとの川に帰ってくるのがシロサケの一般的な回遊パターンです。
問題5 シロサケが日本からオホーツク海を経て、北太平洋からベーリング海に移動し、その後、アラスカ湾とベーリング海を回遊して、そこから往路、北太平洋を渡り千島列島沿いに日本に戻ってくると考えると、距離としては約30000キロメートルの移動距離になると言われています。
問題6 サケは水のにおいを憶えて帰ってくることは、いろいろな実験でも裏付けられ、現在「においすり込み説」として定説になっています。
問題7 サケは産卵のために河口にもどってくるころ、オスの上あごが伸びて、下あごの上におおいかぶさるように伸び、はげしく「鼻曲がり」状態になります。この状態がサケの学術名Oncorhynchus(かぎ状の鼻)の由来です。
問題8 沿岸沿いに来るサケマスを建て網(たてあみ)というワナを仕掛けておいて、漁獲するのが、定置網漁業です。
問題9 毎年、秋になると川に戻ってくるサケは、北海道の人々にとって、特別に貴重な自然のめぐみです。北海道で「サケ」といえばアキアジ。正真正銘の「秋の味」なのです。
問題10 鮭児(けいじ)と時知らず(ときしらず)は、アムール川などロシア方面にもどる若い鮭です。日本近海やカムチャッカ半島を回遊しています。脂肪の比率が20~30%と、通常2~15%程度の銀毛白酒より極めて高く、脂のりがよく、身の締まりも抜群です。時知らず(ときしらず)は時期はずれの5月~7月位に北海道太平洋沿岸を通っていきます。鮭児(けいじ)は「幻の鮭」と言われるくら獲れる数は少なく、10月~11月位に秋鮭の中に数千本に一本の割合で水揚げされます。ウトロ漁協では鮭児(けいじ)の証明書を発行して、品質の保証を行っています。(証明書はウトロ漁業協同組合提供)
問題113 英語の「サーモン=Salmon」は、ラテン語の「跳ねる=Salire」が語源です。サケが川の急流を飛び跳ねて、上流へ上る姿は、どこの国でも大変印象的なものです。
問題121 淡水魚か、海水魚か、という区別は、孵化する場所で決まります。サケは一生の大半を海で過ごしますが、川で生まれますので淡水魚に分類されます。
問題13 太平洋側では「サケは銚子限り」が定説です。坂東太郎(ばんどうたろう)といわれる利根川は関東平野をうるおして流れています。江戸初期まで江戸湾(現東京湾)に注いでいましたが、江戸の水害を減らすために、最大に支流鬼怒川の流路をとって、銚子に出るように瀬替工事がなされました。利根川をさかのぼるサケは、鬼怒川をのぼるものが多く、川沿の千葉佐倉市、香取市佐原の神宮ではサケを祝う神事が残っています。利根川より南の荒川、多摩川、酒匂川や浜名湖などにサケがのぼったことも確認されていますが、例外的であり大局にみれば、やはり「サケは銚子限り」という定説が正しいといえます。
問題14× 北九州の筑豊炭田を流れる遠賀川支流流域の福岡県嘉麻市に「シャケ様」と土地の人が呼んでいる鮭大明神をまつった鮭神社がある。
問題152 北海道東沖で5月から7月にとれた旬のカラフトマスを使用しています。カラフトマスが缶詰に向く理由は、身がやわらかいから。繊維が細かく、しっとり感のある肉質が、缶詰にしたときにおいしいからです。
問題16 原材料であるカラフトマスは、英語名でPink Salmon(ピンク・サーモン)といい、そのPINKを記したものです。
問題17 カラフトマスは北太平洋全域で獲れますが、第二次世界大戦前、樺太(からふと)で多く獲れたことから、その名がつけられました。遡上する河川の南限は太平洋側では青森県の奥入瀬川、日本海側では北海道の増毛付近の信砂川とされています。
問題18 カラフトマスは産卵期になると、背は盛り上がり、口やあごがとてもいかつくなります。ちなみに、盛り上がった背のこぶの中身は軟骨だそう。驚くほどの変身です。「ラクダマス」のほか、地方によっては「アオマス」や「ホンマス」とも呼ばれています。また、オホーツク沿岸の紋別、網走では「オホーツクサーモン」というブランド名をつけています。
問題193 サケの肉が赤いのは、赤い色素アスタキサンチンが多く含まれているから。アスタキサンチンは、ベニザケに一番多く含まれています。
問題20 ベニザケはほとんど、日本の河川に遡上しません。アラスカ、アリューシャン列島、カムチャッカ半島に多く遡上し産卵しています。
問題21× 卵から生まれたベニザケは、1、2年間、淡水の湖で大きくなり、その後、海くだり4,5年でまた生まれた川や湖沼に産卵のために戻ってきます。
問題22 ヒメマスはベニザケの陸封型です。海には行かず、一生、川で過ごします。養殖がおこなわれており、販売業者が養殖のヒメマスを「ベニマス」という商品名で扱うこともありますので、消費者にとっては紛らわしいこともあります。
問題23 大正2年(1913年)、堤商会(現マルハニチロ株式会社)は、最新式サニタリー缶詰製造機械をアメリカから輸入し、カムチャッカの租借漁区に設置したことで生産量は飛躍的にのび、ベニザケ缶詰はイギリス市場に確固たる地盤を築いていきました。
問題24 アスタキサンチンは、万病のもととして恐れられている活性酸素を消去する働きがあります。とくに動脈硬化のもとになる「悪玉」コレステロールをできにくくします。
問題25 産卵期になると、体の中の赤い色素アスタキサンチンがメスの場合は卵(イクラ)のほうに移動したり、オスの場合は体の表面に出てきたりします。私たちが食べている赤いベニザケの切身フレークは、産卵期に入る前の若いベニザケを材料にしていますので、身にアスタキサンチンがたくさん含まれています。
問題26 ベニマスはベニザケの旧名です。元来、サケ、マスの名称がきわめてあいまいに用いられており、厳密性を追求して近年名称が変わった例として、ベニザケ、ギンザケ(かつてはそれぞれベニマス、ギンマスと呼称されていました)を挙げることができます。
問題27 北海道のアイヌ料理や、新潟県村上市に伝わる多様な鮭料理をみれば、いかに北の人々が鮭を大切に扱い、余すところなく料理し、大事な保存食として最大限利用してきたかがわかります。
問題283 ルイベは凍らせたサケ肉をスライスして食べる刺身です。
問題29× 氷頭(ひず)なますは、生サケの頭の軟骨を、塩をして酢につけたものです。大根のおろしをしぼり、ユズなどと一緒にあわせてさっぱりと食べます。
問題30× メフンとは、サケの背わた(腎臓)の塩辛のこと。知る人ぞ知る珍味です。
問題314 「山漬け」は、普通の塩サケとは違い、熟成に日数をかけてサケ肉の旨みを引き出す古来からの製造方法です。
問題32
問題333 1:内臓もエラもついたままの水揚げされた状態を「ラウンド」、2:内臓(場合によってはエラも)を取り除いた状態を「セミドレス」、3:内臓とエラと頭を取り除いた状態を「ドレス」、4:内臓、エラ、頭、尾、ヒレ、中骨を取り除いた状態(3枚おろし)フィレー といいます。
問題34
問題35 サケの人気加工食品のサケフレークは、主にシロサケが多く使われています。北海道のマルハニチロ北日本 森工場ではサケフレーク製造を行っています。
問題361 アイヌ語で自然産卵、放精後のシロサケを「ホッチャレ」といます。繁殖を済ませたサケは死亡し、「ホッチャレ」となってその一生を終えます。ホッチャレは脂が少なく長期保存に適しているなど、アイヌは特にこの「ホッチャレ」を生活に利用しました。実利的な生活の知恵でもありましたが、結果としてサケを保護する術となっていました。
問題372 秋田県南部の由利地方に子吉川(こよしがわ)が流れています。この中流域にある矢島町には「鮭石(さけいし)」と呼ばれている線刻の石がいくつか発見されています(県重要文化財に指定)。この付近には石器や土器も多く発見されており、およそ2000年前に先住民の手で刻まれ、サケの豊漁を祈ったものと考えられています。
問題38 「常陸風土記」(ひたちのくにふどき:現茨城県)には、「河に鮭をとるによりて、改めて助川(すけがわ)と名づく。俗の語に鮭の祖(おや)を謂ひてすけと為す」とあり、当時サケをスケと呼び、サケのとれる川をスケ川といっていたことがわかります。
問題39× 平安時代初期、大量のサケを貢納していたのは、信濃(現長野県)、・越後(現新潟県) 越中(現富山県)の三国でした。 日本海に面する越後・越中両国が当時サケ漁の中心地であったことはともかく、内陸の信州から種々様々なサケ製品が貢進物として納められていました。
問題40× 武田信玄(1521~1573年)は、領有した信州(現長野県)の諸河川のうち、サケがとれる川を「鮭川(さけがわ)」といって、「知行地」(ちぎょうち)として家臣に与えた古文書が現存しています。
問題41 留網(とめあみ)は「鮭網」といわれ、これは上り簗(やな)の一種で、松杭を川瀬に打ち込み、丸竹を横木に渡して、竹簀(たけすのこ)のようにしたものです。この留(とめ)に当ったサケは、簀(すのこ)の下に設けた筌(つづ)の中に入り込むようにしてあります。この留網は、信濃川(現新潟県)の「打切(うちきり)」、千曲川(現長野県)の「留川(とめがわ)」とよく似ており、本州におけるサケ魚法の中心になっていました。そして、河川の八分の一は魚道として残し、その上流でもサケ漁ができるようにしていました。
問題42 サケの遡上前に河口で滞留する習性を利用して、地曳き網が広く使用されました。大河川の河口でこの漁法は盛んにつかわれ、信濃川(現新潟県)では大網と呼ばれる地曳き網漁が行われていました。
問題43× 徳川家康は譜代の酒井忠勝を、信州松代藩主(現長野県)に任じていますが、忠勝は千曲川における「鮭之打切(さけのうちきり)」といって、川をせき止めてサケを捕獲する漁業に対して、10本に対して4本の上納を命じています。4割という上納率は高く、農民に対する搾取がきわめてきびしかったことを示しています。
問題44 江戸では利根川の初鮭が、伊豆沖の初鰹にも比せられるほどに貴重なものでした。 1863年(天保7年)に刊行された食物博物誌「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」初編下之巻「鮭を出す所」には、「これを賞するに事、江戸の初鰹魚(はつがつお)をさをさおとらず。初鮭は光り銀のごとくにして微(すこし)青みあり、肉の色紅(べに)をぬりたるが如し。」とあります。
問題451 「マレク」とは、漁具のなかでアイヌにとって重要視されていた鉤銛(かぎもり)。サケを突くと、モリが反転してサケが動けば動くほど体に食いこむ仕掛けになっています。
問題46 犬は水底にもぐってサケをとらえ、主人の前にもってきます。一夜に30尾もとる犬がいたといいます。
問題473 アラスカはベーリング海の東側にあります。
問題48
問題493 ベーリング海は「台風の墓場」とも呼ばれ、日本列島付近を襲った台風がやがて大きく東に旋回し、再び勢力を盛り返しベーリング海に達します。この時の荒れ模様は実に風速60m/秒、波高12mと想像もつかない荒波となる事もあります。しかし、実は海の中は極めて資源量の多い豊かな海です。
問題50 アラスカは火山による隆起、太古の氷河侵食によるフィヨルド地形により、複雑に入り組んだ地形をしています。この為、大小合わせ300万以上の湖と3万以上の河川、そして無数の小川があり、ベーリング海で育った鮭を受け入れる、格好の産卵場となっています。
問題512 アラスカは火山による隆起、太古の氷河侵食によるフィヨルド地形により、複雑に入り組んだ地形をしています。
フィヨルド:氷河による浸食作用によって形成された複雑な地形の湾・入り江のこと。
エスチュアリー:河口付近に見られる三角江。
ラグーン:湾が砂州によって外海から隔てられ湖沼化した地形。
コート・ダジュール:フランス南部の海岸の呼称。
問題521 ブリストル湾は鮭の漁獲の多い海域になります。
問題534 昨今ではアラスカ州政府は観光業に非常に力を入れています。アラスカの鮭釣りツアーを積極的にPRし、スポーツフィッシングとしてルールを明確にした事で気軽に釣りを楽しめるようになり、オーロラ見学ツアーと並ぶ絶大な人気を誇り、年間140万人とも言われる観光客がアラスカに足を運んでいます。釣竿を手にしたアングラーが空港で長蛇の列を作り、チェックインしている姿はおそらくアラスカならではの光景。
問題541 アラスカでは、鮭に限らず釣りをする場合にはライセンスが必要となります。ライセンスはスーパーや雑貨店などでも売っているので、身分証明書(海外からの観光ではパスポートでOK)さえあれば簡単に取得できます。
問題55
問題56
問題571 日本でサケマスの増殖法が見出されたのは、江戸時代。
村上藩(現在の新潟県村上市)の三面川(みおもてがわ)において、サケの天然繁殖法「種川(たねがわ)の制」が行われたのが最初です。
問題584 江戸時代、村上藩(現在の新潟県村上市)の三面川(みおもてがわ)において、サケの天然繁殖法「種川(たねがわ)の制」が行われたのが最初です。
「種川の制」とは、サケが子を産卵する川の瀬に、適所を選んで柵(さく)を作り、サケを囲い込み、産卵させ、春3月になってサケの子が川を下る季節に川漁を一切禁じる、という方法でした。
問題594 小藩として豊かでなかった村上藩では、三面川でとれる村上鮭(むらかみさけ)を藩政上、たいへん重要視しました。「種川の制」は、サケの増殖を研究していた下級武士・青砥武平治(あおとぶへいじ)の建議によるもので、その案が村上藩に受け入れられ、1762年(宝暦12年)から実施に移されました。青砥武平治(あおとぶへいじ)の工夫が藩の財政をおおいに潤しました。
問題60 庄内藩(山形県)では、三面川(みおもてがわ)の「種川の制」を範として、1806年(文化3年)、月光川(がっこうがわ)を種川としてサケの天然産卵を図ります。三面川の種川制度は明治になってからも継続。江戸時代の権利を取得した「村上鮭産育所」が三面川に設立(1882年:明治15年)され、サケ増殖策に大成功をおさめました。
その後、「村上鮭産育所」はサケで得た資金でさまざまな事業を行いました。そのなかでも、最も有名なのは、教育へのてこ入れと奨学資金の設立です。この奨学金を受けた人たちは「鮭の子(さけのこ)」と呼ばれ、優秀な人材を数多く輩出しました。
問題61× 明治になって、村上・三面川の「種川制」は、北海道へ伝わり、多くの河川で採用されました。
問題622 明治21年(1888年)、わが国のふ化事業のスタートとなった千歳ふ化場の建設は、伊藤一隆(いとうかずたか)の米国視察から生まれました。
問題63 伊藤一隆は札幌農学校の一期生で、「青年よ、大志をいだけ」のクラーク博士(William S.Clark)に直接、学んだ一人でした。卒業後、開拓使御用掛となり、明治19年、北海道庁が出来たときに水産課長になった人です。
伊藤の訪米は明治19年8月から翌年10月まで、滞米約1年に及びました。この間、漁業事情一般を調査し、サケマスのふ化法について大きな感銘を受け、実際にその方法を学んで帰国しました。
問題64 伊藤は訪米早々の10月にはメイン州バックスポートのふ化場を中心に、採卵、運搬、ふ化の実施について教示を受けています。そしてここの場長が、あのアトキンス式ふ化器を考案したアトキンス(C.G.Atkins)でした。アトキンスは1871年以来、サケのふ化法をはじめた人で、ふ化技術についての第一人者でした。
問題65× 千歳ふ化場は、明治22年の春には140万尾を放流して以来、毎年放流を増し、25年の春には700万尾を放流するまでになりました。明治25年、4年前に放流したサケが回帰。今か今かと、サケを待っていましたが11月になっても一向にサケの遡上が見られず、皆、大きな不安を抱いていましたが、12月になって、突如、信じられないようなサケの魚群が押し寄せてました。
問題663 インディアン水車は、伊藤一隆がアメリカからもってきた詳細な設計図をもとに明治29年に設置。
問題67 江戸時代、サケの産地を領内に持っていた蝦夷(北海道)の松前藩や越後(新潟)の村上藩では、将軍に献上するため塩引きサケを生産して江戸に送り、喜ばれていました。この風習が庶民にもひろまって、歳暮の贈り物「新巻きジャケ」が定着したといわれています。
問題683 西日本では、冬にはいって脂が乗った塩ブリが「年魚」として正月の供え物やご馳走になりました。ブリは成長につれ、ワカシ(15cmくらいまでのもの)→イナダ(40cmくらいで夏に美味)→ブリ(90cm以上)と名前が変わる出世魚で、縁起よく、お祝い物に最適でした。
問題69× 蝦夷(北海道)をはじめとしてほとんどの産地が頭を上にして吊るす塩ジャケを生産したのに対し、村上(新潟)では昔から尻尾を上にして吊るします。
問題70 村上藩は松前藩と並んで、塩引きにした鮭を江戸の将軍家に献上していましたが、村上藩では昔から鮭は尻尾を上にして吊るします。一説によると、頭に縄を回して吊るすのは首吊りを連想させて縁起が悪いからですし、将軍家に献上した関係で腹の割きかたも切腹を連想させないように工夫されているとのこと。腹の割きかたは、決して一文字にばっさり切らないとのことです。
問題71 村上もふくめた東北地方では、年末にサケの王「オウスケ」が家族をひきつれて川をさかのぼる、という言い伝えがあった。サケの王は精霊なので捕まえると祟りがあるため、オウスケが来る日はわざわざ網を切ったりした。もし捕まえて食べれば、七代にわたってサケの祟りを受けると恐れられた。サケの王は川をわたるときに、「オウスケ コスケ いまのぼる」と声をたてるといわれています。
問題723 加賀藩士(現石川県)の関沢明清(せきざわあききよ)は、藩から英国留学した秀才でした。明治政府に入った後、1873年(明治6年)ウィーンで開かれた万国博覧会に随員として出張。この博覧会は長く鎖国をしていた日本に大きな刺激を与えました。関沢は当時ヨーロッパで盛んに行われていたマスの人工ふ化方法に驚き、さらに1876年(明治9年)の米国フィラデルフィアの万国博覧会で、サケのふ化方法を学び、日本にその技術を伝えました。
問題733 アメリカの南北戦争で北軍の義勇兵だったホーレス・ケプロンという人が、お雇い外国人として来日し、北海道開拓の指揮をとった。この老兵は、「少年よ大志を抱け」のクラーク先生ほど有名ではないけれど、北海道を一本立ちさせることに大いに貢献しました。
問題74 ナポレオンは兵士に栄養豊富で美味新鮮な食べ物を供給しなければならないことを痛感。フランス政府は12、000フランの懸賞をかけて陸軍糧食となる食品保存技術法を募集し、フランス人のニコラ・アペールの案が採用されました。この「缶詰の原理」を発明したアペールのアイデアが現在の缶詰に発展していきました。
問題75× 明治10年ごろに使われたサケ缶のラベルには不思議なポーズのサケが描かれています。なんと、サケがお腹を地面につけて、うつぶせの形いるのです。こういう魚の描き方は、水中に潜る習慣のなかった西洋ならではの方法。西洋では、釣り場や魚場の風景と、陸に立って生きているサケとで、川や海から獲ったばかり、という新鮮度を表現しました。このラベルデザインを見ただけでも、輸出用のサケ缶であったことがわかります。
問題76 サケの肉は良質なタンパク質。タンパク質は、20種類のアミノ酸が組み合わさって結合してできています。そのうち9種類のアミノ酸は栄養学的に必須アミノ酸と呼ばれています。
問題77 脂質を構成する脂肪酸のうちEPA(エイコサペンタエン酸)とDHA(ドコサヘキサエン酸)はサケには多く含まれています。
これらの脂肪酸には血液の流れをよくする(サラサラにする)働きがあり、さらに血管の若返りにも役立ちます。
問題784
問題79×
問題802
問題81× サケの身はサーモンピンクと呼ばれるように鮮やかな赤橙色をしています。この色素がアスタキサンチンです。万病のもととして恐れられている活性酸素を消去する働きがあります。とくに動脈硬化のもとになる「悪玉」コレステロールをできにくくします。
問題823
問題834 カルシウムは吸収されにくい栄養素ですが、ビタミンDは「骨のビタミン」とも言われ、カルシウムの吸収を助ける働きがあります。ビタミンDの補給源はキノコ類か魚介類ですが、サケにはビタミンDの含有量がとても多いのです。サケの切身1切れで、ビタミンDの1日の所要量をゆうゆうクリアできます。
問題842
問題85 ビタミンB12は金属コバルトをもったビタミンで、その欠乏症は鉄欠乏症貧血とは異なり、正常な赤血球が減って巨赤芽球という赤血球ができ悪性貧血症となります。
サケにはこの悪性貧血を予防するビタミンB12が多く含まれています。
問題86 体側の中央部には美しい紅紫色の虹条が走り、レインボートラウトと言われるゆえんです。
問題87× ニジマスは北米西部の太平洋にそそぐ渓流が原産地とされています。
問題88 ニジマスのうち海に下る降海型の魚をスチールヘッドと呼びますが、冬に降海するグループと、夏に降海するグループがあります。また、カナダでは冬に産卵のために川を遡上するスチールヘッドを「ウインターラン」、夏に遡上するものを「サマーラン」といいます。
問題89× ニジマスは、河川にずっと残留するものは3~4年の寿命ですが、降海するものは6~8年も生きます。
問題90 日本ではアメリカから明治10年(1877年)前後に移入され、青梅、日光、醒ヶ井(さめがい)などで養殖。その後、全国各地で放流されるようになりました。世界的にはアメリカ北部、カナダ南部、ニュージーランド、オーストラリア、タスマニア、南米、アフリカ、南アジア、ヨーロッパ全域に移入され、養殖が行われています。
問題91
問題92 産卵の後、シロサケなどは力尽きて死んでしまうのですが、ニジマスの場合はオス、メスとも生き残り、次の年にも産卵・放精することもあります。同一個体が5回も産卵した例も確認されています。
問題932 アーネスト・ヘミングウェイは著書「最高の虹鱒釣り」で「鉤にかかるや3,40ヤードの糸を一気に引き出してしまう。その怪力をもって岩の下に居座りでもしたら、それこそ梃子でも動きはしない。超大物級になると、勝負は2時間にもわたることがある。スー川での虹鱒釣りは素晴らしい。しかしそれは、凄みのある悪夢のような素晴らしさだ。スー川の釣りの激しさを凌ぐものといえば、カタリナ島沖のマグロ釣り以外、まず考えられない」と書いています。
問題94 ニジマスは、サケ属の中では、比較的高水温に対応することで育てやすく、人工採卵が容易で何度も産卵することから世界的に広く養殖されています。
問題95× サーモントラウトは海面養殖したニジマスのことで、ニジマスと同種です。また、サーモントラウトはトラウトサーモンと呼ばれることもあります。
問題96
問題97 サーモンダービーの表彰式にカナダから名誉顧問のジム・マーレー氏が来日しました。
問題98× リリース禁止、すべて釣ったサケは持ち帰らなければならなかった。
問題994 昆虫に似せた疑似餌である。
問題100 フライフィッシングとは、西洋式毛ばり釣りで、イギリスで発祥してアメリカで発展した独特な釣りである。フライラインという独特な太い糸を使い、その糸をムチのようにシナらせ、小さくて軽い毛ばりを投げ、川に流し、あたかも本物の虫が川を流れるように見せて魚を食いつかせる。このフライを投げるテクニックもこの釣りの非常に面白い要素である。
問題1013 この波紋をライズ(リング)といって、釣り人には興奮させられる一瞬なのです。このポイントにしずかにフライを投げ込みます。
問題102 ニジマスがアメリカ原産なのに対してブラウントラウトはヨーロッパ原産で、名曲「シューベルトの鱒」のモデルとなっている。ニジマスの貪欲にエサを食べる単純な性格に対して、ブラウントラウトはエサの食べ方が気難しいとも言われていて、その性格もなんだかヨーロッパ人っぽい。
問題1032 アイヌ文化はサケと深くかかわりを持っています。アイヌ人にとって、サケはシベ(本当の食物)であり、カムイチェップ(神の魚)でありました。
問題104 アイヌにはサケに関する行事や慣習がいろいろあります。その教えや言い伝えは、巧まずしてサケの生態や個人の知恵を表していることが多いのです。たとえば、上りはじめのサケは、水源を守るキツネの神様の分で、捕ってはならない。つぎのサケな他の神様の分で、それから人間の分と考えられていて、サケを分け合って暮らしていました。(アイヌ民話「キツネのチャランケ」参照)
問題105× アイヌは、オスのサケや産卵後に死に絶えたサケ(ホッチャレ)を主に捕った。これらはオスのほうがおいしいとか、ホッチャレは脂が少なく長期保存に適しているなど、実利的な生活の知恵でもありましたが、結果としてはサケを保護する術となっていました。
問題106 アイヌはこのような不漁を回避するために「神の贈り物としてのサケ」を丁寧に扱い、殺すにしても、その際、「イナウ・コル(幣を・お持ち)」と唱えながら新しいイサバ・キツニ(たたき棒)を使って礼をつくしました。このイサバ・キツニ(たたき棒)は、神に捧げる木幣(きぬさ)と考えられ、サケはこの木幣(きぬさ)をおみやげにもらって、初めて、神の国に帰ることができるのです。(アイヌの民話「鹿と鮭と水の神さま」参照)
問題107
問題108
問題109 一尾のままでははらわたも入ったまま凍らせたものがルイベで、10本ほど木立にぶら下げておく。1,2月ごろ、退屈なときに、ルイベを食べにくるようにと近所の人同士で誘い合い、お互いに行ったり来たりして食べる。とくにカムイノミ(神々への祈り)の翌日、泊まっている人たちに食べさせると口当たりがよいと、とても喜ばれる。ルイベはトノト(酒)を飲みながら食べたりすることはなく、正気のときに食べる。
問題110× アイヌ料理の「ルル」や「オハウ」はサケの汁物の料理である。

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