SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

館長のサーモンレポート1 鮭神社を訪ねて

サーモンミュージアムの館長です。
「鮭と漁業」の「ふ化放流事業、80年後の成功」でお伝えしましたように北海道のふ化放流は、職員の方々の苦労と試行錯誤の連続であり、数々の失敗と挫折の歴史でした。
今回は、そのふ化事業に親子二代で打ち込まれた木村義一氏の著書「鼻まがりサケ談義」より、数点のエピソードを抜粋してご紹介します。


*木村義一氏は1955年(昭和30)に水産庁北海道さけ・ますふ化場千歳支場に就職され、北見支場次長、根室支場長、本場(札幌市豊平区中の島)次長を歴任。1990年、財団法人千歳青少年教育財団へ移られ、千歳市サーモンパーク、サケのふるさと館の建設準備にあたり、94年から千歳サケのふるさと館館長をされた方です。また、父君・鎚郎氏もさけ・ますふ化場の前身「北海道水産孵化場」の場長をされていて、親子二代にわたりさけますの増殖に従事されました。

 
 ふ化放流事業のエピソード1
一日が終わると泥のように眠った。
『私は5人ほどの事業係に配属になった。事業分掌ではふ化放流作業と研究が主な任務の係である。やがて稚魚の放流準備が始まった。その手始めが広大な池に架けてある日覆板の片付けである。板といっても、厚さ2.4センチ、長さ3.6メートルもある。しかも遠い池から100メートルも離れた庭の隅の板倉に運んで積むのである。気の遠くなるような作業だ。

先輩たちは軽々と4,5枚を重ねて担ぎ、15センチ幅の池のふちをらくらくと渡り歩く。私といえば、みじめである。2,3枚を担ぎ、少しでも風が吹こうものならふらつき、池に落ちることもたびたびである。半月もすると4,5枚は担ぐようになったが、一日が終わると泥のように眠った。』
――「鼻まがりサケ談義」桜の園より抜粋:1955年(昭和30年)頃
 ふ化放流事業のエピソード2
60キロ下流で稚魚を放流。これで1日に運べる量は30万匹、半月以上は続けなければならない。
『板片付けが終わって息つく間もなく、稚魚の放流作業が始まった。
他の川のふ化場では直接川へ放流するので大した作業ではないのだが、千歳川では中流にある4カ所のかんがい溝への迷入被害を防ぐため、稚魚を水舟で60キロも下流へ運んで放すのである。
サケは冷水魚と呼ばれ、フナやコイなどと違って、摂氏10度前後の水温を好み、20度以上では耐えられない。
毎年しろかきのころには稚魚が大量の水とともに灌漑溝に入り、水温が上がるとたんぼ一面真っ白になって死んでしまう。灌漑溝をかわしてから放すと、稚魚が死なずにサケが増えるだろう、と考えるのは当然で、江別付近までの輸送放流となった。
上流のふ化場から組立式の水船に稚魚を積んで千歳川の流れを下るのである。見た目には豪快なレクリエーションにみえるが、街を過ぎた西越(インディアン水車付近)までの10キロが5時間以上もかかる大旅行だ。

西越からは川底が深くなるので、今度は動力船の舷側に抱えられて下るが、稚魚に合わせてゆっくり走るので、それからの50キロも、5,6時間の長旅である。
日暮れ頃に稚魚を放し、舟を解体して動力船に積み、西越からトラックに積み替えてふ化場へ帰って来る。あすのために組み立てると真夜中、朝4時には起き出し、池の稚魚を集め舟に入れる。これで1日に運べる量は30万匹、半月以上は続けなければならない。
何とかならぬかと次の年は酸素を使いトラックで運ぶ方法を考案することにした。何日も稚魚と酸素の関係を調べ、器具を検討した。いよいよ実用試験となった。卵の確保が困難な時代、もし死んだらどうするのかと反対する上司を辞表預かりで押し切り、60万匹を積んで江別まで走った。大成功。これで一日180万匹も運べる。今では当たり前のこの方法もこれが初めてで、以来、輸送舟は姿を消し、飛躍的に作業が楽になった。
だがしかしである。その後の研究がすすんでみると、これほどの苦労で下流まで運んだことが、資源を減らす結果になっていたとは!ただぼう然とし、自然に対する人間の考えの浅さに苦渋を味わった。
このことが、その後わたしがサケを考えるときに人間との距離を意識する動機となったのだと思う。』
――「鼻まがりサケ談義」輸送舟より抜粋:1958年(昭和33年)頃
 
 ふ化放流事業のエピソード3
輸送放流は、トレーニングをしていない池の稚魚を突然、川に放り出す結果になっていた。
『さて、稚魚の生態について研究が進んでみると、急流で育った稚魚と、流れの緩やかな池で育った稚魚では、泳ぎの瞬発力や持続力に格段の差があることが分かった。
彼らが川の急流で繰り返し泳いでいたのは、おそらく一番危険な渚で生き残るために、懸命にトレーニングをしていたのであろう。

千歳川での輸送放流は、トレーニングをしていない池の稚魚を突然中流に放り出す結果になっていたのだから、休むこともえさを取ることもできなかったであろう。しかもそのころの石狩川は、上流からのパルプ排水で真っ黒。ほとんどの稚魚は息も絶え絶えに濁流に押し流され、海で自然の犠牲になっていたに違いないのである。
田んぼに入って死ぬ稚魚を助けるために、朝早くから夜遅くまでの作業に明け暮れた日々は、サケを増やす努力どころか懸命に減らし続けていたのであろう。千歳川で放流する石狩川系のサケは、昭和30年代の終わりには石狩浜のサケ漁がなくなるほどに激減したが、そのことと無関係ではないはずである。

稚魚の生態が分かって、輸送放流はやめた。生まれた池からの放流がはじまると、春の日がきらきら躍る上流で、よどみに群れ、流れに逆らう稚魚たちが見られるようになった。 その後、稚魚を大きくして放すようになったことや、田んぼの取水量が減ったこともあって、かんがい溝への迷入も少なくなった。再び石狩川系のサケが増えだしたのは、輸送放流をやめて5,6年たってからで、今では、昔以上に石狩浜のサケ漁は盛んである。』
――「鼻まがりサケ談義」稚魚の旅立ちより抜粋:1960年(昭和35年)頃
 ふ化放流事業のエピソード4
後を絶たない密漁。ふ化場の監視員や警官さえも暴行を受けたり、監禁されたりと、命がけの時代であった。
『昭和30年ごろまで密漁全盛の時代が続いた。
この時代は、サケを増やそうにも種卵がない、ふ化場にとっては受難の時代であった。特に石狩川や十勝川、天塩川、釧路川、西別川など、サケの多い川では、組織的な密漁団のために種卵の確保が深刻であった。秋になるとふ化場と警察で取り締まり本部をつくり、しばしば大がかりな取締りを行っていた。新聞には「深夜の捕りもの帳」などと書かれ、秋の「風物詩」の観があったが、一方ではふ化場の監視員や警官さえも暴行を受けたり、監禁されたりと、命がけの時代であった。』
――「鼻まがりサケ談義」種卵確保より抜粋:1955年(昭和30年)頃
 ふ化放流事業のエピソード5



多くのふ化場は辺ぴで、苦しみ死線をさまよう家族を戸板に乗せ、何里かの雪道を運んだという話も聞いた。
伊藤一隆らが描いたものは、官営ふ化場の技術指導と種卵の供給によって、「漁業者自らふ化場を作り獲る」ことであった。このための民間のふ化場は、明治の末には32ヶ所に及んだ。さらに、指導体制でも明治40年には、根室官内の虹別ふ化場が2つ目の官営ふ化場として設置され、強化されたことで、北海道のふ化事業体制は整ったかに見えた。

しかし、実情は、まず、技術者が育たなかった。豊富な湧き水の場所に建てるふ化場は山奥が常。深く閉ざされ、行き来も難儀な山中では、習うも教えるもままならず、育てという方が無理。加えてふ化事業は種まきで経費がかかる。経営難から意欲をなくし、投げ出すところも少なくなかった。

私が勤めた昭和30年ころでさえ、多くのふ化場は辺ぴで、一年一度の会議のために管轄する支場へ来るにも2日がかり、苦しみ死線をさまよう家族を戸板に乗せ、何里かの雪道を運んだという話も聞いた。とにかく、あふれる様な物の中で文化的な生活を満喫し、一大消費経済の時代となっていた昭和50年ころでさえ、職員組合の要求から「越年資金の貸付けを!」 の声が消えなかった。半年分の食料や必需品を買い込んで冬を過ごさなければならなかったからである。

この宿命的な状況の中で、「ふ化事業による漁業の自立」の理想に燃えた漁業者も少なくなかったが、挫折と復興がふ化事業の歴史になった。』
――「鼻まがりサケ談義」ふ化事業の変遷より抜粋:1955年(昭和30年)頃
 ふ化放流事業のエピソード6
ゆで卵をつぶして与えたり、冷凍したタラコをつるして食わせたり、餌の選択から始まった。
『サケの資源が80年に及ぶ長い低迷期から脱却して増えだしたのは、昭和46年(1971年)から。しかも、その伸びようがただごとではなかった。
低迷期の北海道のサケの資源量は、せいぜい2~300万匹。とびきりのよい年でも500万匹であったが、増え始めの昭和46年で765万匹、3年後に1000万匹、10年後に2000万匹、14年後に3000万匹、19年後はついに4000万匹を超えたのである。 あれほど増やすことが困難であったサケが、なぜ増えだしたのか。


種卵が確保できるようになって放す稚魚の数が増えたこともあったが、主因は、放した稚魚が親魚になって帰る率(回帰率)が年々向上したことである。数字で云えば、低迷期の回帰率はせいぜい1%前後。それが安定して2%を超え、以来年々向上して近年では全道平均で4~5%、地域によっては7~8%に達するようになった。技術の革新が原因なのだが、その第一弾が「飼育放流」であった。

飼育放流というのは、稚魚を放す前に1~3ヶ月間餌を与えてから放すもので、本来の技術にはなかった。自然では、稚魚は川で餌を食べて海に出るので、大量に放す稚魚に餌を与えることは有用な技術であることは当然であったが、まだデータが不備な時代では、膨大な経費と手間がかかるこの事業は、予算を要求しても奇想天外だと一蹴された。
資源増大計画を実行するため、まず飼育の方法と結果についての試験に取り組んだ。
ゆで卵をつぶして与えたり、冷凍したタラコをつるして食わせたり、餌の選択から始まった。そして飼育結果の観察。当時、全道のサケの放流計画数は8億匹、えさが安価で与えやすいことも実用化には重要な条件。長い試験が続いた。その結果にようやく予算担当が耳を傾けるようになった。現在市販されているようなドライ型の簡便な餌が開発されたことも幸いした。

そして昭和42年にはじめて予算がついた。飼育した稚魚の量は全体の30%に満たなかったが、翌春、記念すべき放流を行った。
実は、これが昭和46年に帰ってきたサケである。年ごとに予算が伸び、飼育割合が増した。サケの回帰率は飼育量に比例するように向上した。現在は飼育放流が当然の技術となっており、北海道だけで毎年6~700トン、金額ではほぼ1億円に近い餌がサケに与えられている。

飼育の効果について、「大きく丈夫に育てて放したから」と云う説明はとても判り易い。しかし、飼育にはもっと重要な意味がある。どんなに大きく丈夫でも、沿岸に餌がなければ効果は無い。その餌生物は、沿岸の水温が10~13度になる頃に大量発生する。それまで飼育し、その時期に合わせて放流することが可能になったことである。
当然、暖流の到達が早い道南では早く3月中旬~4月下旬に、道東は遅く4月下旬~5月下旬に調整して放流されている。「適期放流」と呼ぶこの技術は、まさにサケを増やすための画期的な切り札だったのである。』
――「鼻まがりサケ談義」切り札の技術より抜粋:1965年(昭和40年)頃
引用文献:
木村義一著「鼻まがりサケ談義」北日本海洋センター 1994年発行
※今回の記述は木村義一氏本人の希望で「鼻まがりサケ談義」に若干の加筆修正をしております。(2007.7)
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