SALMON MUSEUM サーモンミュージアム

第7回カムチャッカ半島の民族集団「コリヤーク」について(1)

サケ干し棚/カムチャッカ州パラナ村

北海道から千島列島を北上するとナイフのようなカムチャッカ半島がシベリア大陸から突き出ています。この半島には3つの民族集団が居住していて、千島列島北部からカムチャッカ半島最南端に住むクリル(千島アイヌ)、半島南部のイテリメン、そして半島北部周辺にはコリヤークが生活をしています。このコリヤークは2つのグループに分けられます。1つは海で獲物をとることを生活基盤としてきた「海岸コリヤーク」と、もうひとつはトナカイ遊牧を生活基盤としてきた「トナカイ・コリヤーク」です。
今回は北海道立北方民族博物館学芸員、渡部裕氏のご協力を得て、氏の論文「コリヤークの歴史と文化」と「北方民族とサケ」から、海岸コリヤークや周辺の民族について、ご紹介させていただきます。
海岸コリヤークの生業 「コリヤークの歴史と文化」内「海岸コリヤーク」より抜粋させていただきました。

かつてのカムチャッカ半島の行政区分(1900年前後)
海岸コリヤークの主な生業活動は夏から秋にかけてのサケ漁、同じ頃にサケを求めて河口に来遊するゴマフアザラシ、アゴヒゲアザラシ、シロイルカなどの海獣狩猟である。 コリヤークの居住地区ではサケは主にカラフトマスとシロザケであるが、簗(やな)や刺網(さしあみ)で一冬分のサケを捕獲することができた。
また、アザラシは棍棒(こんぼう)や網、鉤(かぎ)などで捕獲されたが、後には銃によって捕獲されるようになった。シロイルカは河口にやってきたところを網で捕獲することが多い。
山猟は初冬の12月が中心であるが、場合によっては2月まで猟が続く。山猟ではヒグマ、キツネ、クロテン、野生トナカイ、シベリアビッグホーン、クズリ、ライチョウを捕獲した。さらに、春季には再びアザラシ猟を行う。春秋の渡り鳥の季節にはガン・カモ猟も行う。サケのほかに、春秋で河川で漁獲されるホッキョクイワナ、春季に河川に来遊するキュウリウオや氷下漁で漁獲されるコマイも重要な漁業資源である。
サケをはじめ魚類の多くは天日で乾燥して干し魚に加工し保存食とする。こうした干し魚 はコリヤークの食料としてだけではなく、橇(そり)イヌの食料としても重要である。 海岸コリヤークは各家族で10頭前後の橇イヌを飼育してきた。
このような頭数のイヌを飼育するには多くの干し魚が必要となる。サケでは干した頭や中骨をイヌに与えることが多い。また、時々アザラシの脂肪を与えてイヌの体力をつける。かつてはイテリメンのように地中で発酵させたサケーキスラー*をイヌの餌としても利用した。
食用植物ではヤナギランが最も多く利用された。乾燥した茎や茎から取り出した髄(ずい)も乾燥して保存食とされた。
また、多くのベリー類やナナカマドの実、ハイマツの実も好んで集められてきた。
捕獲技術と鉤銛(かぎもり)の系譜 「北方民族とサケ」より抜粋させていただきました。
アイヌの鉤銛(かぎもり)
北太平洋沿岸の諸民族の居住形態の特徴として定住性の高さがあげられるが、それは豊富なサケ資源を背景として成立し得たとされている。サケの捕獲場所は、多くの場合、河口を含む河川内であるが、北アメリカ北西沿岸の北西海岸インディアン諸族では海域においてもサケ漁を行っていたことが知られており、海域において網や銛(もり)、釣りなどによる精緻(せいち)な漁労体系をもつとともに、河川においても網や簗(やな)、籠罠(かごなわ)など多様な漁労技術を用いていた。
北方諸民族のサケの漁法には川中に魚止め柵(さく)を設置する方法、ヤスや鉤(かぎ)など突き取り具を用いる方法、各種の網を用いる方法に大別できる。掬い網(すくいあみ)や流網(ながしあみ)、刺網(さしあみ)などの小規模な漁網が使われてきたが、本州から北海道、カムチャツカ半島、北アメリカ北西沿岸にいたる広範な地域で、網の材料にイラクサ繊維が使われてきた。
北海道アイヌのサケの捕獲場所は、突き取り具や小型の網、捕獲施設などの発達状況から、場所請負制期の大型の引網導入以前では、小中河川あるいは大河川の上流・中流域が主であったと考えられる。サハリン・アイヌでは小河川の場合、河口から上流2-4㎞くらいの地点が主要な捕獲場所となっていたとされ、このような傾向はサハリンに居住するニブフ、ウイルタについても同様であったと考えられる。ツイミ川のような比較的長大な河川の場合、ニブフは上流部にも居住し、サケ類を捕獲していた。カムチャツカ半島でも河川においてサケ漁が行われ、ペンジナ湾のコリヤークでは河口付近やそれより少し上流域で捕獲してきたと報告されている。その他の地域でも、簗(やな)と箱罠(はこわな)を組み合わせた捕獲施設や鉤銛の存在から、上流域でも捕獲が行われてきたと考えられる。
コリヤークの鉤銛の鉤(かぎ)
サケを対象とした突き取り具には魚体に突き刺さる先端部分が柄から離脱するタイプがみられ、離脱する先端部分と柄は紐(ひも)でつながれる。この離脱機構は大型の魚種を上方向へ取り込むときの衝撃を緩和し、漁具の破損や取りこぼしを減少させる機能をもつものと考えられる。離脱機構をもつ突き取り具のなかで、本州北部で使われた「かさやす」は海獣狩猟民が用いる離頭銛とまったく同じ形式、機能をもつものであるし、本州北部にみられる「袋鉤」や北アメリカのアサバスカ・インディアンのキャリアーにみられる「引掛け鉤」は鉤の基部が袋柄状で本柄に装着され、手前に引く動作で魚体を引掛け、鉤が離脱することで捕獲時の衝撃を緩和する機能をもつ。このほかにアイヌ、ニブフ、エベンキ*、そしてカムチャツカ半島のイテリメン*、エベン*、コリヤークにみられる「鉤銛」は多くの場合その鉤に「かえし」をもたず、鉤の先端部分が前方に向くように、その基部を柄の先に半固定して用いられる。

大型の鉤銛/カムチャッカ州郷土博物館
ただし、例外としてサハリン・ツイミ川のイトウ漁に使われたニブフの鉤銛は鉤の先が手前を向くように装着された。北海道アイヌでは、現存する資料からみるかぎり中柄の溝に鉤の基部が装着されている。中柄と鉤をつなぐ鉤紐を鉤の基部で糸や細紐で巻き込み、その巻き糸(紐)のふくらみが溝への半固定を確実にしている。サハリン・アイヌではこの形式および柄に溝をもちながらも鉤の基部が巻いた紐に挿入されて半固定される形式が知られている。ニブフのサケ漁用鉤銛では鉤は巻いた紐で半固定される。カムチャツカ半島のイテリメン、コリヤークでも巻き紐で半固定される。
同じくカムチャツカ半島のエベンでは巻き紐で鉤が半固定されたと思われるが、現存するもののなかには鉄輪に挿入して半固定されるものがある。なお、イテリメン、エベン、コリヤークは鉤銛をmarikと呼び、エベンは柄、鉤の先端部、胴部、鉄製リング、鉤紐に対するそれぞれの名称をもち、ことに鉤紐がクマ皮から作られていることは興味深い。
さらに、カムチャツカ半島の鉤銛の形状には巻き紐や鉄輪に挿入する部分をもたないタイプがある。この形式はイテリメン、コリヤーク、エベンにみられるが、紐穴を通して皮紐を柄に巻き付けることで鉤は半固定状態に保たれる。この形式の鉤銛には大型のものや鉤の先端が二重になっているタイプがあり、それらはアザラシ猟に用いるという。このように半固定の方法や鉤の大きさに違いはあるが、同様の作動形式の突き取り具が北海道、サハリン、カムチャツカ半島にみられることは、サケを生業基盤とする地域における文化交流を示唆するものと考えられる。

加工と保存
サケ干し棚/カムチャッカ州パラナ村
一般的に新鮮なサケの眼球や頭の軟骨を生で食べる習慣は広くみられ、また新鮮なサケのスープも北方地域の代表的サケ料理である。さらに、カムチャツカ半島やアラスカではサケを醗酵させて食べる習慣が知られており、カムチャツカ半島のイテリメンやコリヤークは晩秋に獲ったサケを地中の穴で液状になるまで醗酵させて冬季のイヌの餌としたり、地域によってはヒトも食べていた。西アラスカでは頭の部分を同じく地中で醗酵させていた。
しかし、北太平洋沿岸におけるサケの加工方法の中心は乾燥であり、魚体ばかりではなく魚卵も乾燥して越冬用の食料としてきた。北太平洋の諸民族にとっての干しサケの位置づけは、クラシェニンニコフ*が「干しサケはシベリアの多くの民族にとってパンみたいなものだ」とする見解に尽きる。アジア側では主として天日および風による乾燥が行なわれ、北アメリカ西海岸では燻煙による乾燥が行われてきた。天日乾燥における基本条件は比較的低温で湿気が低いこと、また乾燥を促進する空気の流れにさらされていることである。北太平洋沿岸の大部分の地域で屋外の干し棚がサケ類の基本的な乾燥施設として用いられてきた。コリヤークではサケ漁期に雨天が多いため屋外の干し棚のほかに高床式住居や貯蔵庫の下が乾燥場として利用され、ウリチ*では屋根付きの干し棚も用いられていた。また、北海道やサハリンのアイヌでは気温の高い夏季に捕獲されるカラフトマスなどを乾燥させる場合、腐敗やハエ類などの虫害を防ぐために炉の火で表面を焼いた上で天日干しを行う焼き干しも行われてきた。
乾燥したサケを越冬食として利用する上で、含まれる脂質の酸化が問題となる。脂質を多く含む干し魚の油脂は時間の経過とともに酸化し、味や匂いを悪化させるばかりか、摂取した人体にも悪影響をおよぼす。酸化によって毒性物質が生成されるほか、ビタミンAやCが脂質酸化にともなって破壊される。
サケの燻製小屋/カムチャッカ州アナブガイ村
シロザケは7種中最も遡上時に脂質の含有率が低下するため乾燥保存に適しており、その遡上の多い北海道やサハリン、アムール流域、カムチャツカ半島では干しサケの大部分がシロザケであった。また、脂質の多い種に対してはサケの脂質酸化を考慮したと考えられる処理が行われてきた。カラフトマスは脂質を多く含むが、サハリン・アイヌでは産卵を済ませ脂質の少ないカラフトマスを捕獲して乾燥させていたことが知られている。また、サケの腹部には脂質が多く含まれるため、腹部(ハラス)を切り取って乾燥させることも一般的にみられる。
しかし、ベニザケなど脂質を多く含むサケは、河川で捕獲した場合でも、長期の保存の間に脂質の酸化は避けられない。このような魚種の酸化を防ぐ方法として燻煙乾燥が行われてきた。ベニザケを多く捕獲する北アメリカ北部太平洋沿岸のイヌイト、アサバスカ・インディアン、北西海岸インディアンでは燻煙小屋等の専用施設を利用し、熱そのものよりも暖められた空気の流れや煙成分の殺菌・保存効果、香りづけなどによって燻煙乾燥が行われてきた。サハリン・アイヌやアムール流域のウリチでは夏の住居や漁小屋で燻煙していたことが知られている。木材を加熱して発生する煙に含まれるアルデヒド類、フェノール類、酸類が、燻煙されるサケに芳香を加えるとともに、油脂の酸化を防止したり微生物の発育を阻害する物質を添加し、さらに味覚の点ですぐれたものにすることができる。
一方、脂質の少ない干しサケの食事にともない、アザラシ油や魚油などの動物性油脂を補完的に摂取する慣習が広範にみられる。炭水化物食品を充分に摂取できない北方地域の人びとは、それに代わるものとして海獣類や魚類の油脂を多く摂取してきた。また、これらの動物性油脂は特有の匂いをもち、間宮林蔵*が「サハリン・アイヌにとってアザラシ油は醤油みたいなものだ」と書き留めているように食欲を増進させる調味料的なはたらきをもっている。とくに油脂の少ない干しサケのみを摂取する場合にはカロリー不足や代謝不良を起こすため、油脂を補完して摂取する必要があり、干しサケはアザラシ油や魚油に浸して食べることが一般的であった。補完的に摂取する油脂も酸化は免れないが、北方地域では海獣類の内臓などを油容器として利用し、空気との接触を最小限にすることで酸化を防ぐ工夫がされてきた。このような干しサケは冬季には主食的な位置を占めるものであった。
北太平洋沿岸の多くの地域ではイヌが橇犬(そりいぬ)、船曳犬(ふなひきけん)、荷駄犬(にだけん)としての労役犬、クマ類やシカ類などの狩猟に猟犬として利用されてきたが、イヌの餌には主に干し魚が利用され、干したサケ類も主に中骨や頭などがイヌ用とされてきた。また、乾燥時の天候により腐敗やハエの害が生じてヒトの食料になり得ないものについてもイヌの餌に転用されてきた。カムチャツカのイテリメンでは乾燥した卵巣をイヌに与えたり、地中の穴で醗酵させたサケ類を与えていた。なお、北海道・サハリンのアイヌ、ウイルタ、ニブフ、ウリチでは飼育クマに対しては干したサケ類を餌として手厚く扱い、アイヌのクマ送り儀礼では干しサケを旅立つクマの土産のひとつに加えてきた。
サケをめぐる精神文化
サケには多くの地域で神話や礼儀を伴う。サケに限らず狩猟や漁撈のはじまる時期に集落として豊漁(猟)を祈願する儀礼や、獲物はそれらを支配する<神>あるいは<主>が人間世界に送ってくれたものとする観念は北方の狩猟採集民社会に一般的である。とくにアイヌや北アメリカ北西沿岸のインディアン諸族にはサケに対する特別の儀礼や観念が発達している。アイヌでは漁期に先立って行われる豊漁祈願の儀礼、初漁儀礼などやサケが遡上する河川、調理、言葉などに関するタブー、サケの霊を送る叩き棒の信仰、特異な形態のサケに対する信仰などが知られている。北アメリカ北西海岸ではサケは「サケの国に住む人」であり、この世のひとが獲ったサケは正しい取扱いによって再びサケとしてよみがえり、「サケの国」から再びやってくることができると考えられてきた。また、本州北部においても川の〈主〉である「鮭の大助・小助」の伝説が広い地域で知られていることや、サケがエビス神とかかわりをもち、「サケの世界」の存在を意識するとも読み取れる観念が伝えられてきた。サケの頭を叩く棒の存在はカムチャツカやアムール流域などにも知られているが、とくにアイヌやニブフ、北西海岸インディアンの叩き棒(たたきぼう)は再生儀礼としての意味をもち、本州北部のエビス棒も初源的にはその意味が付与されていたのではないか。
現代カムチャツカ先住民とサケ
ソ連体制崩壊後、現代ロシア社会は経済的混乱期が続き、先住民社会は経済的に苦境におちいっている。そうしたなかで、先住民社会にとってサケ漁は重要性を増してきているように思える。1998年8月下旬から9月中旬に行なったカムチャツカ州における先住民調査にもとづきアナブガイ村、チギリ村、パラナ村におけるサケ漁とその利用について触れ、現代におけるサケと先住民社会のかかわりを検討してみたい。
半島中央部に位置するアナブガイ村は、調査時点での人口は635人(居住人口は619人)で、その内先住民は435人(エベン317人、コリヤーク118人)と約70%を占め、先住民の比率が高い村である。ペレストロイカ以前は3つの村とも産業の中心はトナカイ飼育と農業であったが、現在ではトナカイの飼育規模は縮小し、それにともないかつてソホーズ*に属していた人びとの多くが仕事を失っている。例えばアナブガイ村ではトナカイ・ソホーズは20,000頭のトナカイを飼育し、100人以上の人々が働いていた。ソホーズではほかに牛などの家畜飼育と温室で作物を栽培していたという。トナカイ飼育の単位は約1,000頭で構成されてきたが、現在は1群約1,200頭のみが残されている。調査時点での村の就業者数184人の内、トナカイ飼育に従事する者は19人であった。トナカイ肉の販路は狭く、冷蔵庫などの設備もないことからトナカイ飼育者は現金収入がほとんどない状況におかれている。
チギリ村は人口約2,300人で、その内先住民としてはイテリメンが多く、約20%を占める。チギリ地区にはかつて9のイテリメンの集落があり、1950年に3つの集落、チギリ、セダンカ、カブランにまとめられた。コリヤークの場合は1963年に小さな村が閉鎖され、西部地域のセダンカ、ハイリューゾヴォ、カブラン、チギリ、ウスチ・ハイリューゾヴォに再編された。チギリ村でもトナカイ飼育は縮小され、飼育頭数はかつての3分の1程度に落ち込んでいる。パラナ村は約4,000人の人口に対し先住民は約30%を占め、そのなかでもコリヤークが多い。パラナ村でもトナカイ飼育に関しては同様の変化を受けている。
このようにトナカイ飼育がペレストロイカ以前と比べ衰退傾向にある一方、サケは日々の食事で重要な位置を占め、人びとはサケに依存している。アナブガイ村では先住民1人当たり30㎏のサケの捕獲枠が与えられている(エッソ・アナブガイ地区全体では50t、1人当たり45㎏)。カムチャツカ川の支流であるアナブガイ川では簗(やな)と箱ワナを組合わせた漁法が用いられていた。このようなサケ漁は、各人の捕獲枠をあずかった形で拡大家族の一部の者が行っている。チギリでは刺網が用いられ、パラナ川では刺網のほかに伝統的な漁法もみられ、とくに老人によるサケ漁では伝統的な漁法が用いられていた。その要因のひとつには経費がかからないということもあろう。そして先住民社会にみられる捕獲したサケや狩猟した肉を狩猟や漁撈の手段をもたない人たちに分配する慣習を現在でも目にすることができる。
サケの主な加工は今日では塩水に浸した後、燻製乾燥される。村のあちらこちらに燻煙小屋がみられ、老人たちによるフィッシュ・キャンプではテント内で燻煙されていた。魚卵は木枠に網を張った道具で卵粒に分離され、塩漬けにされて貯蔵されている。またサケの小さな切り身を塩漬けした食品も一般的である。
先住民の伝統的なサケ類の天日干しは今日でも一部で行われている。天候が悪くて腐敗したりハエの害を受けた干しサケはイヌの餌となり、またエベンでは天日干しのサケの身を搗(つ)き砕いて粉末状にしたポルシャ*がつくられている。お湯をかけて米といっしょに食べたり、神に捧げる特別の料理トルクッシャ*にも用いる。イテリメンではこのポルシャの粉末にアザラシの脂肪を加えて食べたり、スープにも利用してきた。ポルシャは軽くて便利なため、とくに狩猟者の携行食として利用されていたものであり、コリヤークではイヌ橇の旅行用に必要だという。
新鮮なサケはスープあるいはミンチにされて揚げパンや餃子の中身として利用される。また、イテリメンの伝統的調理キルキルではボイルしたサケを大皿に入れてくずし、新鮮なベリー類を加えて潰(つぶ)し、アザラシ油を入れてかき混ぜる。ウハラ*は乾燥したサケを叩いて切り、沸騰した湯に入れ、アザラシの脂肪を加えて茹(ゆ)でたもので、今日のカムチャツカ先住民は伝統と変化のなかでさまざまな調理・加工を行なってサケ類を利用している。
現在カムチャツカの先住民は燃料不足、失業のなかで、ジャガイモやニンジン、ビーツ、キャベツなどの露地栽培とトマト、キュウリの温室栽培、乳牛の飼育を行なうとともに、伝統的資源に依存しなければならない。男性たちの多くは狩猟に出かけ、トナカイ飼育民のなかには、夏季の群の移動時期にもかかわらず、村の近くに留まって冬のためのサケ漁を行なっているグループもあるという。
しかし集団化、集落の再編を経て生れた現在の大きな村は、伝統的資源に依存する点で好ましい居住地ではない。近代的な移動手段を十分に利用できない現状では、多くの人が周辺の限られた資源に依存しなければならないからである。
*注釈用語について
●「コリヤークの歴史と文化」の「海岸コリヤーク」の中の用語について
地中で発酵させたサケ―キスラ―→
これは、カムチャツカの先住民・イテリメンのやり方で、秋に地面に大きな穴を掘って、その中に獲ったサケをそのままの状態で大量に入れ、土を被せて発酵させ、最終的にどろどろの状態になります。冬に開けて(被せた土を取り除いて開けると、その強烈な匂いが1㎞にも拡がったといわれています。)その発酵したサケをすくって、イヌの餌にします。このどろどろの状態のキスラと干しサケを桶で温めてたものを、橇イヌに夜に与えるのがイテリメンの伝統的な餌の与え方です。現在、キスラを作ることはありません。
●「捕獲技術と鉤銛の系譜」の中の用語について
ニブフ→ 民族名、ウイルタ→民族名、エベンキ→民族名、イテリメン→民族名、エベン→民族名
●「加工と保存」の中の用語について
クラシェニンニコフ→
ロシアの地理学者。ペテルブルグ科学アカデミー会員(1750)。モスクワのスラブ・ギリシア・ラテン学院,ついでペテルブルグ大学で学び,1733‐43年ベーリングを長とする第2次カムチャツカ探検隊に加わった。1733‐36年のシベリア調査では,ドイツ出身の学者グメリンJ.Gmelin,ミュラーG.Mullerに師事,37‐41年には単独でカムチャツカ半島の自然と住民を調査し,その成果とドイツ出身の博物学者シュテラーの調査資料を合わせて《カムチャツカ誌Opisanie zemli Kamchatki》(1755)を著した。
ウリチ→民族名
間宮林蔵→
江戸後期の探検家。常陸(ひたち)の生まれ。幕府の蝦夷(えぞ)地御用雇となり蝦夷地に勤務、伊能忠敬に測量を学ぶ。千島・西蝦夷・樺太を探検。間宮海峡を発見し、樺太(サハリン)が島であることを実証。シーボルト事件の告発者といわれる。
イヌイト→民族名
●「北方民族とサケ」の「現代カムチャツカ先住民とサケ」の中の用語について
ソホーズ→
ソ連邦の国営農場。
ポルシャ→
「ポルシャ」は料理の名称ではりません。干したサケの身を搗きつぶして、粉末状にしたもので、保存食です。旅の携行食となるほか、この粉末をお湯に入れてスープとすることもできます。
トルクッシャ→
「神にささげる特別の料理」の名称です。干したサケや筋子、ヤナギランの茎のなかの髄を干したもの、各種のベリー類を一緒に搗きつぶして、アザラシ油を加えた料理です。
ウハラ→料理の名称
引用・参考文献
『北海道立北方民族博物館 第21回特別展 環太平洋の文化Ⅰ コリヤーク ―ツンドラの開拓者たち―』発行:財団法人北方文化振興協会 平成18(2006)年7月14日発行
『北海道立北方民族博物館 第14回特別展 神の魚・サケ ―北方民族と日本―』発行:北海道立北方民族博物館 1999年7月19日発行

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